夕暮れが、まだ新しさの残るアパートの窓辺を淡く染めていた。
カーテンを通して射し込む西日が、段ボール箱の山に長い影を落とし、埃がほのかにきらめいている。
壁紙は新品特有の接着剤の匂いをまだ漂わせ、床板は足音に微かに反響した。
転職という人生の転機に背中を押され、十数年ぶりに地元へ戻ってきたこの日、私は自分だけの空間に、まだ慣れない静けさと未来への淡い期待を感じていた。
だが、その静寂は突然のノックによって、あっさりと引き裂かれることとなる。
ドアベルが鳴る前に、私は手元の段ボールのガムテープを剥がし、ガサガサと衣類を仕分けていた。
音の途切れる間、玄関の向こうから人の気配が濃く迫る。
重い湿度を帯びた空気の中、鼓動が一瞬だけ速まる。
「こんな時間に誰だろう?」
そう思いながらドアスコープを覗くと、そこには顔色の悪い中年の男、NHKの胸章が目立つジャケットを着た人物が立っていた。
彼の額にはほんのり汗が滲み、片手には分厚い資料ファイル。
すぐに察しがつく。
ドアを開けると、男は待ってましたとばかりに一歩踏み込むような勢いで話し出す。
「テレビお持ちですよね?設置すればNHKと契約して受信料を払う義務がありますよ、放送法で決まってますから。
」
その声は妙に低く、響きの角が立っていた。
彼の言葉に漂うのは、まるでこちらを試すような、見下しすら感じさせる強い圧。
部屋に入り込む湿った夜風とともに、その態度が私の神経を逆撫でする。
心の奥で、かすかな苛立ちが波紋のように広がる。
—なんなんだ、この偉そうな態度は。
言い返したい衝動が、喉元までこみ上げる。
だが同時に、社会人としての理性も頭をもたげる。
過去、都会暮らしで幾度となく経験した「押し売り」や「強引な勧誘」の記憶が脳裏をよぎる。
そのたびに感じてきた、無力感と屈辱。
だが、もう同じ轍は踏みたくない。
私は、わざと軽口を叩くことで、空気を変えようとした。
「じゃあ、今からお前に俺のストリップを見せてやる!お前は俺に鑑賞料金を払え!」
唇が乾く。
自分の声が思ったより大きく響き、玄関の白い壁がわずかに音を跳ね返す。
集金人の男は一瞬、呆気にとられたように目を細める。
だが、表情を崩すことなく、むしろ苛立ちを隠せない声色で、
「ふざけないでください!」
と吐き捨てる。
彼の声には、怒りと戸惑い、そしてどこか諦めにも似たニュアンスが混ざっていた。
玄関先の空気が張り詰める。
外からは、遠くで犬が吠える声と、近所の子供が自転車で駆け抜けるタイヤの音が微かに聞こえてくる。
だが、私と集金人の間には、言葉にならない緊張が立ち込めていた。
私の呼吸は浅くなり、手のひらにじっとりと汗が滲む。
私は、もう一段階、声のトーンを落とした。
「じゃあ真面目に言ってやる。
不退去罪って知ってるか?何度も”帰ってください!”と家主が言ってるのに、それでも帰らないと不退去罪という罪になる。
警察に通報できるんだぞ。
」
言葉を一つ一つ区切り、相手の目を真っ直ぐ見据える。
集金人の男は、眉をわずかにひそめ、喉仏が上下する。
彼の背後の薄暗い廊下が、妙に奥深く感じられる。
彼は一歩も引かないが、目だけが揺れていた。
私は畳みかけるように、早口で「帰れ!」を十回以上繰り返す。
自分でも驚くほど、声が硬く響く。
そのたびに、体の中心部が熱くなるのを感じる。
—ここで引いたら、自分の尊厳が崩れてしまう。
そんな深層心理が、私の背中を押していた。
「お前は俺の警告を無視した。
今から警察に通報していいか?」
と、最後は静かに、だが低く凄むように言い放った。
集金人は、ついに目をそらし、肩をすくめる。
その表情には、怒りよりもむしろ疲労が浮かんでいた。
「今回は見逃しますが、他の集金人が来たら契約をお願いします。
」
そう呟きながら、彼は重い足取りで廊下を後にした。
ドアを閉めると、静寂が再び部屋を満たす。
だが、私はしばらくその場に立ち尽くし、鼓動の余韻を感じていた。
湿った手のひらをズボンで拭い、深く息を吸い込む。
—新しい生活は、こうして始まったのだ。
自分の選択と、これからの時間の重さを、改めて噛み締める。
窓の外では、もう夜の帳が静かに降り始めていた。
スカッとする話:アパート初日の静寂を破るNHK集金人、言葉と心理が交差する玄関先の攻防
アパート初日の静寂を破るNHK集金人、言葉と心理が交差する玄関先の攻防
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