引越し初日の朝、未だ段ボールの山に埋もれたアパートの一室で、僕は静かに息をついていた。
窓の外では淡い朝靄が、見慣れぬ町を乳白色のヴェールで包んでいる。
遠くで列車の警笛が、微かにくぐもって響いた。
コーヒーの苦みが舌に残る。
新生活の始まりは、どこか不安と期待が入り混じる味がする。
けれど、そんな感傷に浸る間もなく、インターホンが鋭く鳴り響いた。
静寂は唐突に破られる。
玄関を開けると、見知らぬ男が立っていた。
中年の、焦げ茶色の背広。
その顔には、どこか事務的な倦怠が張り付いている。
彼は名乗りもせず、まるで規則文を読み上げるように口を開いた。
「テレビをお持ちですよね?設置すればNHKと契約し、受信料を払う義務があります。
放送法で決まっています」
その言葉は、乾いた紙切れのように僕の耳を通り過ぎた。
男の目は、まるでこちらを測る天秤のように冷たい。
唐突に胸の奥に、小さな棘が刺さる。
――不躾だな。
新しい朝に、こんな風に土足で踏み込んでくるなんて。
反射的に、言葉が唇を突いて出た。
「じゃあ……今からおじさんに僕のストリップを見せてやるよ。
おじさん、僕に鑑賞料を払ってくれるのか?」
自分でも驚くほど滑稽な台詞だった。
だが、男は眉ひとつ動かさない。
むしろ呆れたような顔で、少しだけ肩をすくめた。
「ふざけないでください」
声がわずかに震えた。
怒りとも、戸惑いともつかぬ響きがそこにある。
僕はふと、自分の中に、居場所のない違和感が広がっていくのを感じた。
だが、それでも引き下がる気にはなれなかった。
新しい生活の門出を、知らぬ誰かの命令口調で汚されたくはなかった。
「じゃあ、真面目に話そう。
不退去罪って知ってますか?何度も『帰ってください』って家主が言ってるのに帰らないと、不退去罪になる。
警察に通報できるんです」
男の目が、ほんのわずか揺れた。
その揺らぎを見逃さず、僕は畳みかける。
「帰ってください。
帰ってください。
帰ってください……」
言葉を重ねるたび、部屋の空気は重くなる。
段ボールの埃っぽい匂いが、ますます濃くなった気がした。
「おじさん、僕の警告を無視しましたね。
今から警察に通報してもいいですか?」
沈黙が、ふたりの間に落ちる。
外では、午前の陽射しがゆっくりと傾き始めていた。
男は一度だけ深く息を吐き、目を伏せた。
「……今回は見逃します。
他の者が来たら、契約をお願いします」
そう言い残して、彼は無言で去っていった。
ドアが閉まる音が、妙に遠く感じられる。
静けさが戻った部屋の中で、僕はしばらく立ち尽くしていた。
荷ほどきの手を止めたまま、心の奥に奇妙な余韻が残っている。
埃舞う光の粒の中、僕の新しい生活は、まだ始まったばかりだった。
スカッとする話:春の埃と、訪れざる客――新生活の朝に
春の埃と、訪れざる客――新生活の朝に
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