あの夜の出来事は、私の人生における「武勇伝」という言葉には少し収まりきらない。
むしろ、闇に包まれた山道で体験した、現実と非現実が入り混じるような濃密な時間だった。
六月の終わり、湿った夜風が窓の隙間から車内に流れ込んでくる。
ライトに照らされる細い山道は、黒々とした木々が両脇に生い茂り、道路の端にわずかに残る苔むしたガードレールが、緑色に鈍く光っていた。
エンジンの低い唸りとタイヤがアスファルトを掠める音だけが、沈黙の中に浮かび上がる。
助手席に座る私は、薄闇の中で旦那の太い腕がハンドルを握る様子をぼんやりと眺めていた。
彼の呼吸は普段通りだが、夜の静けさが不安をそっと掻き立てる。
そのときだった。
バックミラー越しに、異様な光の粒が二つ、闇を切り裂くように近づいてくる。
後ろから迫るヘッドライトの光は、私たちの車内に鋭い影を投げかけ、白いハイエースの巨大な車体が、まるで山道を支配する捕食者のように、距離を詰めてきた。
ハイエースのフロントグリルは、まるでカブトムシのツノのように威圧的で、その動きには苛立ちと挑発が滲んでいた。
「……なんか、すごい近い」
私は小さく呟いた。
喉が渇き、舌先がわずかに苦い。
旦那はちらりとミラーを見上げ、無言のまま速度を落とす。
しかし、道幅は車一台がやっと通れるほど。
両脇の草いきれと湿った土の匂いが、微かに窓の隙間から入り込んでくる。
クラクションが鋭く鳴り響き、車体ごと揺さぶられるような圧を感じた。
ハイエースのヘッドライトが私たちのリアウィンドウに反射し、車内が一瞬、昼間のように明るくなる。
「ごめん、もう少しで避難帯だから」
旦那が低い声で呟いた。
だが、その直後、ハイエースはさらに近づき、煽るように車間を詰める。
私はシートベルトを握りしめ、鼓動が耳の奥で大きく跳ねた。
空気が重く、湿度が急に増したようだった。
ついに、旦那はやむを得ず車を停止させる。
ブレーキが軋む音とともに、静寂がいっそう濃くなる。
道路脇の街灯はなく、私たちの車のテールランプの赤い光が、夜の闇に滲んでいた。
私は息を潜め、ミラー越しに後ろを窺う。
ハイエースのドアが乱暴に開き、複数の男たちが降りてきた。
若い男たち。
手には鈍い銀色に光る棒。
彼らの足音が、アスファルトを打つ雨音のように近づいてくる。
心臓が喉元までせり上がり、全身の筋肉が硬直する。
冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
「大丈夫だから」
旦那の声は静かだったが、決意のこもった低音が夜気を震わせた。
彼は外国人で、身長185センチ、体重110キロ。
かつて重量挙げの世界大会にも出場したことがある。
私が初めて彼と出会ったとき、その圧倒的な存在感に惹かれたことを思い出した。
男たちが車に近づき、一人が勢いよくドアを蹴りつけた。
鈍い音が車内に響き、私は思わず息を呑む。
数瞬、時間が止まったように感じた。
だがその直後、旦那が勢いよくドアを開け放つ。
ドアは予想外のスピードで開き、男たちは体勢を崩して転倒した。
彼らの表情には、明らかな動揺と恐怖が浮かぶ。
旦那は車を降り、闇の中に仁王立ちする。
その姿は、夜の山道に突如現れた巨人のようだった。
街灯のない闇のなか、彼のシルエットだけが強く浮かび上がる。
男たちは棒を手にしたまま、まるで小動物のように後ずさる。
「すいません!すいませんっ!」と、か細い声で繰り返し、縮こまる。
その声は、先ほどまでの威圧的な態度とは対照的に、どこか震えていた。
旦那が低く、しかし威厳を持って問いかける。
「ドア、蹴ったよね?」彼の声には怒りではなく、揺るがぬ自信があった。
男たちはパニック気味に「すいませんっっ、これ、修理代ですっ」と叫び、一万円札を差し出す。
紙幣が薄暗い車内の空気を切る音まで、私にははっきりと聞こえた気がした。
旦那は「いらないよっ!」ときっぱり拒む。
だが男たちは一万円札を車内に放り投げると、慌てて車に戻り、ハイエースを発進させて夜の闇に消えていった。
去り際、かすかにタイヤが砂利を弾く音が耳に残った。
私はしばらく呆然としながら、手のひらの汗を感じていた。
旦那は何事もなかったかのように運転席に戻り、再びエンジンをかける。
「もう大丈夫だよ」と小さく微笑む。
私はその笑顔を見て、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
後ろを振り返ると、もうハイエースの姿はなかった。
夜の山道は再び静寂に包まれ、蛙の声と、遠くで木々が風にそよぐ音だけが聞こえた。
家に帰ってから、車内に残された一万円札を見つめる。
あの男たちの震える手、紙幣に染み付いたわずかな汗の匂い、そして自分の鼓動の余韻。
旦那と話し合い、その一万円で近所の養護施設にホールケーキを二つ、クリスマスプレゼントとして寄付することに決めた。
あの夜の恐怖と緊張、そして安堵の一息。
その全てが、クリスマスに小さな奇跡となって誰かに届いたのだと思うと、胸がふわりと軽くなった。
DQNたちからの思いがけない贈り物――それは、重くも優しい夜の記憶として、今も心に残り続けている。
スカッとする話:闇夜の山道、圧倒的な存在が静寂を切り裂く――恐怖と安堵が交錯する一夜の記憶
闇夜の山道、圧倒的な存在が静寂を切り裂く――恐怖と安堵が交錯する一夜の記憶
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