夜の山道は、まるで世界が己の存在を忘れたかのように静まり返っていた。
窓の外には、深い闇が切り裂かれるように細い道が一本、くねりながら続いている。
ハンドルを握る夫の横顔が、儚い月明かりに浮かんだ。
私は助手席で、沈黙に耳を澄ませていた。
時折、フロントガラスに映る自分の顔が、見知らぬ他人のように感じられる。
その静寂は、背後から突如として現れた強い光に破られた。
ルームミラーに映る無遠慮なヘッドライトの光芒。
ハイエース――黒く、押し出しの強い車体が、まるで甲虫のツノのように私たちに迫ってくる。
エンジン音が低く唸るたび、背骨を撫でる冷たい指先のような悪寒が走った。
クラクションの音は、山あいに反響し、夜気を震わせる。
夫は黙ったまま、しっかりとハンドルを握りしめている。
私は無意識に呼吸を浅くした。
道幅は狭く、すぐに譲ることもできない。
進む先の避難帯まで、あと少し。
だが、後ろの車は待ってくれなかった。
やがて、夫は路肩に車を寄せた。
ブレーキがきしむ音が、山間の闇に沈み込んでいく。
私は心臓の鼓動が耳の奥で膨れ上がるのを感じながら、後ろを振り返った。
ハイエースのドアが乱暴に開き、二人の男が現れた。
彼らの影は、伸びて、歪んで、夜の地面に不気味な紋様を描く。
一本の鉄パイプのようなものを手にしている。
男たちは、何のためらいもなく夫の車に近づき、ドアを蹴りつけた。
鈍い音が車体に響き、私は思わず息を呑んだ。
夫はゆっくりとドアノブに手を掛けた。
私はその仕草に、言葉にできない安堵と不安を同時に覚える。
ドアが勢いよく開かれるや否や、男たちは思いがけずバランスを崩し、闇に足を取られて転倒した。
夫は車の外に立ち上がった。
夜の闇に溶け込む大きな体躯。
彼の存在そのものが、重力の中心であるかのように場を支配する。
185センチの身長と、110キロの体重。
世界大会で重量を持ち上げたその逞しい体は、言葉以上に雄弁だった。
男たちの強がりは、途端に霧消した。
「す、すいません!すいませんっ!」と、二人は小動物のように声を震わせ、頭を下げた。
夫は静かに彼らを見下ろし、問いかける。
「ドア、蹴ったよね?」
男たちは、今にも消え入りそうな声で「すいませんっっ、これ、修理代ですっ」と一万円札を差し出した。
夫はそれを受け取らず、「いらないよっ」とだけ言った。
だが彼らは一万円札を車内に投げ込むと、蜘蛛の子を散らすように走り去っていった。
静寂が戻る。
私は、逃げ去るハイエースのテールランプをぼんやりと見送った。
夫は再び運転席に戻り、何事もなかったようにエンジンをかける。
その横顔は静かで、しかしどこか遠い世界を見ているようだった。
山道を下りながら、膝の上に置かれた一万円札を見つめる。
指先に紙幣の質感が、現実の重みとなって伝わってくる。
あの夜の恐怖と、夫の静かな強さと、そして残されたこの一枚。
後日、その一万円は、近所の養護施設に二つのホールケーキとなって届けられた。
クリスマスの朝、子どもたちの歓声が窓辺を通り抜けていく光のように響く。
あの夜の事件は、私たちにとって小さな武勇伝にもならなかった。
ただ、恐怖と優しさと、そして思いがけない形の善意だけが、静かに心の底に沈殿していった。
スカッとする話:夜の細道、重力の男と一万円のクリスマス
夜の細道、重力の男と一万円のクリスマス
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