それは、今となっては霞の向こうに消えかけた、私の若い日々のひとコマでした。
季節は初夏。
湿度を含んだやわらかな陽光が、オフィスの大きな窓ガラスを通して斜めに差し込み、淡い影を床に落としていました。
私が勤めていた会社の事務室は、木製の棚やグレーのスチール机が整然と並び、時折書類をめくる音やプリンターの低い駆動音、遠くで誰かが小さく咳払いする音だけが、静かな空間に点々と浮かんでいました。
空調の涼しさの中に、コピー用紙とインク、微かに古い書類の匂いが混じって漂い、外の喧騒はほとんど届きません。
私はその頃、20代前半。
まだ社会人としての緊張感を全身にまとい、電話応対にも慎重さと初々しい自意識をにじませていました。
自分の席で伝票整理をしていると、内線電話の鈍いコール音が、静寂を破るように鳴り響きました。
いつもの取引先からの連絡かと思いきや、受話器を耳に当てた瞬間、違和感が全身を駆け抜けました。
電話口から聞こえたのは、聞き覚えのない男性の声でした。
その声は妙に低く、抑揚を抑えた話し方で、微かに湿った重さがありました。
彼は、私の名前でも会社名でもなく、「○○ちゃん?」と、まるで親しげに、しかし私にはまったく馴染みのない女性の名を呼びかけてきたのです。
一瞬、私は頭の中が空白になり、心臓が小さく跳ねました。
自分の声が震えていないか、無意識に息を整えながら、私は「ここは○○さんの電話ではなく、会社です」と、できるだけ落ち着いた声で答えました。
オフィスの空気が、ほんの少しだけ重くなった気がしました。
隣の同僚が小さく振り返る気配も、視界の端に映りました。
しかし、相手の男性は謝罪もせず、どこか芝居がかった調子で「○○ちゃんの声に似ていたから、間違えたよ」と、妙な親密さをにじませてきました。
その言葉に、私は言葉にならない微かな不快感と警戒心を覚えました。
「優しいですね」「声が綺麗ですね」――彼は、私が返事に悩む隙間を縫うように、妙に粘ついた言葉を投げかけてきます。
私は受話器を持つ手が汗ばむのを感じ、胸の内では「早く切ってしまいたい」と思いながらも、どこかで社会人としての礼儀を意識して、はっきりと断ることができませんでした。
相手の声は徐々に変化し始めました。
最初は単なる世辞だったものが、次第に呼吸が荒くなり、「はぁ…はぁ…」という、明らかに異様な吐息混じりの声へと変わっていきました。
その音は、オフィスの静寂の中で異質に響き、私は全身の血の気が引いていくのを自覚しました。
喉が渇き、手の指先が冷たくなっていきます。
「どうしよう」――頭の中で警報が鳴り響きました。
誰にも聞かれてはいけないものを聞いてしまったような、圧迫感と羞恥と恐怖がないまぜになり、心拍数が明らかに上がります。
視界の端で、上司が私の異変に気づき、眉をひそめてこちらを見ていました。
私は決心し、受話器をそっと上司に差し出しました。
上司は、私の様子からただならぬ事態を察したのでしょう。
無言で受話器を取り、低く渋い声で「もしもしー」と、威圧感を込めて応答しました。
その瞬間、電話の向こうで一瞬だけ沈黙が訪れ、次いで「ブチッ」という荒々しい切断音だけが残響のように耳に残りました。
電話が切れた後のオフィスは、妙な静けさに包まれました。
私は受話器を持っていた手が小刻みに震えているのを感じました。
さっきまで感じていた湿った空気が、今はやけに冷たく、肌にまとわりつくようでした。
あの出来事が、単なる間違い電話だったのか、それとも最初から悪意のあるイタズラだったのか、今となっては分かりません。
ただ、あの時の沈黙や、声の調子、呼吸の音――そういった細部まで、今でも鮮明に思い出すことができます。
あの日の午後の光、オフィスの静寂、胸を締め付けた得体の知れない不安は、私の記憶の奥底に、今も影として残っています。
仕事・学校の話:白昼の事務所に忍び寄る異質な声―電話越しの不穏な気配と若き日の私の動揺
白昼の事務所に忍び寄る異質な声―電話越しの不穏な気配と若き日の私の動揺
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