会社の窓辺に、春の陽射しが静かに降り注いでいた。
遠くの街路樹には薄桃色の花がほころび、やがてくる新しい季節をそっと予感させていた。
私は、午後の静けさの中、書類の山に囲まれながらデスクに向かっていた。
その日も、いつものように単調な事務作業をこなしていた。
蛍光灯の白い光が、机の上のコーヒーの冷めた匂いと混ざり合い、時折外から聞こえる自転車のベルの音だけが、世界がまだ動いていることを教えてくれる。
そんな静寂を破ったのは、一本の電話だった。
受話器を取ると、馴染みのない、どこか湿った低い声が耳に触れた。
「……もしもし、○○ちゃん?」
知らない名前。
私の部署に、取引先以外から電話がかかることなど滅多にない。
違和感が、冷たい水滴のように背中を滑り落ちていく。
「申し訳ありませんが、こちらは○○さんの番号ではなく、会社の代表です」
私はできるだけ穏やかな声で、事務的に返す。
だが、相手は構わず続けた。
「ああ、そうか。
……でも、声が○○ちゃんに似ていたから、間違えちゃったよ」
その言葉に、わずかに警戒心が芽生える。
続けて彼は、「優しい声ですね」「とても綺麗な声だ」と、まるで何かを引き出そうとするように、言葉を重ねてきた。
私は戸惑い、受話器のコードを指先で弄りながら、どう返事をすべきか逡巡した。
ここで切れば良いのか、それとももう少し話を聞くべきなのか。
社会人としての礼儀と、女としての不安が、心の中で静かに綱引きをする。
そのとき、受話器の向こうから、不意におかしな息遣いが聞こえてきた。
「……はぁ、はぁ……」
皮膚の上を氷が這うような感覚。
私は二十代の、まだ世間知らずな女だった。
恐怖が胸を掴み、心臓の鼓動だけが耳の奥で高鳴った。
咄嗟に、隣の席にいた男性上司に受話器を差し出した。
上司は、落ち着いた低い声で「もしもし」と一言。
その瞬間、電話は唐突に切れた。
受話器を置いた後も、しばらく私は指先の震えを止めることができなかった。
春の陽射しは、さきほどよりも少しだけ白っぽくなっていた。
あれは本当に間違い電話だったのか、それとも最初から誰かの悪意だったのか。
今でも答えは出ない。
ただ、あの午後の光景と、耳に残るあの声だけが、時間の底に沈む小さな謎として、私の中に静かに息づいている。
仕事・学校の話:声の向こうに沈む午後——ある春の日の小さな謎
声の向こうに沈む午後——ある春の日の小さな謎
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