それは、今からちょうど二十年前、私がまだ古びた団地の一室に身を寄せて暮らしていた頃の出来事だ。
あの頃の団地は、コンクリートの灰色が雨に濡れるたび深みを増し、夕暮れが訪れると、四角く切り取られた窓の一つひとつに淡い光が浮かび上がる。
人々の生活音が薄い壁越しにぼんやりと響き、どこか寂しさを宿していた。
あの日も、会社からの帰り道、私は濡れたアスファルトの匂いと、遠くで響く車のタイヤ音を背に、団地敷地内の小さな公園の前を通り過ぎようとしていた。
時刻は夜の八時過ぎ。
三月の冷たい雨が、街灯の明かりをぼやけさせながら静かに降り続いていた。
雨粒が空気を冷たく裂き、コートの肩にじっとりと重みを増していた。
ふと、私は足を止める。
公園の中央、濡れたブランコの横に、ひとりの少年が立っていた。
年の頃は十六、七歳だろうか。
黒髪は雨を吸って額に貼りつき、制服のような紺色のジャケットもすっかり水気を含んでいた。
彼は傘も差さずに、じっと向かいの団地の一角を見つめている。
その背中からは、まるで周囲の世界が彼だけを置き去りにしたかのような、静かな絶望が漂っていた。
私の視線は、彼の異様な静けさに釘付けになる。
周囲では雨音と遠くのテレビの音が交錯しているのに、彼の周囲だけが音を吸い込んでいるように感じられた。
皮膚を刺すような夜風が、私の頬を撫で、湿った空気が肺に沈み込む。
私はその場の空気が、どこか不穏に、重く変質したような錯覚を覚える。
その夜の寒さは、三月の終わりとは思えないほどで、指先がかじかむのを感じながら、私は彼の存在を気にしつつも、自分の部屋へと足を速めた。
帰宅後も、少年の姿が頭から離れなかった。
部屋の中に入ると、外とは対照的に、暖房のぬくもりが私を包み込む。
しかし、心のどこかに冷たい針が刺さったような違和感が残る。
一時間後、私は何かに突き動かされるように窓辺に立つ。
薄いカーテン越しに外を覗いてみると、驚いたことに、彼はまだ公園に立ち尽くしていた。
雨は、彼の肩を容赦なく叩き続け、街灯に照らされた輪郭から、彼の表情はうかがい知れない。
だが、その不動の姿勢が、彼の内側で渦巻く思いの深さを物語っているように思えた。
「どうして、こんな時間まで……?」
私は心の中で問いかけながらも、疲労と無力感に押されて、結局警察に連絡することもなく、ベッドに倒れ込んだ。
枕元には、まだ部屋に残るコーヒーの香りと、冷たい雨の匂いが混ざり合っていた。
夜の静寂に、私の鼓動だけがやけに大きく響いた。
翌朝、目覚めると、まず窓の外を確認した。
カーテンをそっと開くと、変わらず、彼は雨の中に立っていた。
夜明けの冷たい光が団地を照らしはじめていたが、彼の周囲だけは、まるで時間が止まったかのような静寂が支配していた。
雨は小降りになっていたが、彼の髪は濡れたまま、顔色も青ざめて見えた。
私は思わず、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
昼になっても、彼はその場所を動かなかった。
私は食事をとりながらも、何度も窓の外へ目を向けてしまう。
時間とともに、彼の肩はわずかに震え、膝がかすかに揺れているのが見て取れた。
彼の限界が、静かに、しかし確実に近づいていることが、観る者にも伝わってくる。
ついに私は耐えきれなくなり、傘を手にして外へと駆け出した。
雨の匂いと冷たい空気が肌を刺す。
彼のもとに近づくと、彼の足元の水たまりには、しずくが絶え間なく波紋を描いていた。
私は傘を差し出し、声をかける。
「大丈夫? どうしたの?」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
目は赤く腫れ、何かを堪えるように唇をぎゅっと結んでいる。
その瞳の奥には、深い悲しみと、どこか諦めたような静謐さが宿っていた。
彼は小さな声で、「ありがとうございます」とだけ呟いた。
その声音には、雨音に溶けてしまいそうなほどのか細さと、それでも感謝を伝えたいという切実さが滲んでいた。
だが、それ以外のことは彼の口からは語られなかった。
私は、彼が自分の殻に閉じこもっているのを感じながら、そっとその場を離れた。
彼はその後も、六時間ものあいだ、雨の中で動かずに立ち続けた。
私はどうしても彼のことが気になり、向かいの団地に住む知人に連絡を取った。
しばらくして返ってきた話は、思いもよらぬものだった。
彼は亡くなった娘さんの恋人であり、娘さんはちょうど一ヶ月前、わずか十六歳で急性白血病により亡くなったという。
彼は、彼女の死の瞬間をただ見守ることしかできなかった。
その話を聞いた瞬間、私は胸の奥に熱いものが込み上げ、涙が止まらなかった。
彼は、最愛の人の死を受け入れられず、何もできない自分を責め、夜を徹して、ただ雨の中に佇んでいたのだ。
彼女が暮らしていた団地を見上げながら、彼女との記憶に囚われ、未来への希望も手放してしまったかのように。
彼の姿を思い出すたびに、私は彼がその場に立ち尽くしていた理由を考えてしまう。
もしかしたら、雨の冷たさを感じることで、彼女の不在を実感し、なおさら強く彼女の存在を心の中に呼び戻そうとしていたのかもしれない。
あるいは、あの水音や雨の重みが、彼の涙を、彼女への想いを、誰にも知られずに流せる唯一の拠り所だったのかもしれない。
今、彼がどうしているのかは分からない。
だが、あの雨の夜、ひたすらに何かを耐え、何も語らずに立ち続けた彼の背中は、私の記憶の中で今も鮮やかに焼きついている。
哀しみと強さ、そして不器用なまでの愛情があの静謐な空間に満ちていた。
雨に濡れた青年の姿は、人生の痛みと、その先にあるかすかな希望を、今も私に教えてくれている気がする。
彼は本当に、格好良かった。
切ない話:雨に滲む団地の夜、喪失と哀惜が交差する青年の背中 ― 20年越しに胸を打つ一夜の情景
雨に滲む団地の夜、喪失と哀惜が交差する青年の背中 ― 20年越しに胸を打つ一夜の情景
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