雨は夜の帳とともに静かに降っていた。
20年も昔のことだが、あの日の冷たい雨脚と、街灯に滲む水滴の光彩は、今も私の記憶の底で音もなく揺れている。
会社帰り、私は団地の薄暗い廊下を歩いていた。
コンクリートの壁に雨粒が跳ね、遠くで自転車のベルがひとつ、寂しげに鳴った。
そのときだった。
ふと視線を感じ、足を止める。
公園の片隅、雨に濡れた砂場の脇に、少年がひとり立っていた。
傘もささず、黒い髪は水に濡れて額に張り付き、身体は細く小さく、まるで世界の片隅に置き忘れられた影のようだった。
彼はじっと、向かいの団地を見つめている。
夜八時、まだ三月の冷え込みが骨にしみる。
なのに、彼は動かない。
どこか不吉なものを感じ、私は胸の奥がざわついた。
家に帰ると、冷えた部屋の空気が現実に引き戻した。
コートを脱ぎ、手を洗いながらも、少年の姿が脳裏から離れない。
窓際に立ち、そっとレースのカーテンをめくる。
雨の音。
街灯の下、彼はまだそこで立っていた。
まるで時が止まったかのように、不動のまま。
私はその夜、疲労にまけて早々に床についた。
警察に電話しようか迷いながら、言い訳のように「きっとすぐに誰か気づくだろう」と心の中で繰り返した。
眠りの底で、雨音が途切れ途切れに夢の中に流れ込んできた。
翌朝。
目覚めてすぐ、私は窓に駆け寄った。
朝靄が薄く団地を包み、雨はまだやまない。
少年は、変わらぬ姿で立ち尽くしていた。
夜を越えて、濡れそぼった服のまま、団地を見つめている。
手足はわずかに震えているようだった。
私はコーヒーを淹れながらも、彼のことが気になって仕方がなかった。
心の奥で、何かが重く沈んでいく。
昼近くになっても、少年はその場所から動かない。
たまらず、私は傘を片手に外へ出た。
雨粒が頬に当たる。
冷たさが現実の重さを教えてくれる。
「大丈夫?」私は問いかけた。
声は不自然に震えていた。
少年はゆっくりと私を見た。
透き通るような瞳だった。
しばしの沈黙ののち、彼はかすかに微笑み、「ありがとうございます」とだけ呟いた。
その声は雨音に溶けて、すぐに消えた。
けれど、それ以上は何も話してはくれなかった。
ただ傘を受け取ることもなく、また団地を見つめて立ち尽くしていた。
私はその場に立ちすくみ、どうしていいか分からなかった。
雨と沈黙だけがそこにあった。
午後になっても、彼は動かなかった。
私は、とうとう向かいの団地に住む知人に電話をかけた。
そこで初めて知ったのだ――彼は、亡くなったばかりの娘さんの恋人だということ。
娘さんは一ヶ月前、16歳で急性白血病で逝った。
彼はその最期を、ただ見守るしかなかったらしい。
私は受話器を握ったまま、涙が止まらなくなった。
なぜ、あの時、あの場所で、彼はただ雨に打たれて立ち尽くしていたのだろう。
彼女を失った哀しみと、どうしようもない無力感――それらが冷たい雨とともに彼を包んでいたのだろう。
彼の胸の内は、私などには到底計り知れない深い闇だったに違いない。
あの雨の中、少年は何を見つめていたのだろう。
彼の心の中には、まだ彼女が生きていたのかもしれない。
あるいは、彼女のいない世界の現実を、ようやく受け入れようとしていたのかもしれない。
16歳で彼女を失うということ。
その重さを思えば、胸が裂けるような痛みが今も蘇る。
時は流れ、季節は何度も巡った。
けれど、あの日の雨と、団地の灯りの中に立つ少年の姿は、今も私の記憶に鮮やかだ。
彼の背中には、哀しみと、そして確かな強さがあった。
孤独と向き合い、愛する人を想い続ける姿――それは、誰よりも格好良く、美しかった。
もし、彼が今どこかでこの空の下にいるのなら。
あのとき差し出した傘の温もりが、ほんの少しでも彼の心に届いていたなら。
私はそれだけを、静かに願うしかないのだ。
切ない話:雨の向こうで少年は立ち尽くしていた――団地の夜に沈む哀しみの記憶
雨の向こうで少年は立ち尽くしていた――団地の夜に沈む哀しみの記憶
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