あの日の記憶は、今でも鮮烈に脳裏に焼き付いている。
山奥の静謐な空気、木漏れ日に差し込む埃の粒、そして、あの異様な光景――。
思い出すだけで、喉の奥が乾き、背中に冷たい汗がにじむ。
それは日曜日の午後だった。
朝から空は雲一つなく澄み渡り、陽射しはどこか柔らかく、けれど森の奥へ進むほどに、木々が重なり合って光が遮られ、空気はひんやりと湿り気を帯びていた。
鳥のさえずりと、時折遠くで鹿が枝を踏みしだく音。
それ以外は、しんとした静寂が広がっていた。
田舎の我が家には、裏山へ続く細い獣道がある。
祖父と手を繋いで歩きはじめた小学生の頃、どこにどんなキノコが生えるのか、どの木の根元が狙い目なのか、丁寧に教え込まれた記憶がある。
祖父の大きな手の温もりと、土の匂い、落ち葉を踏みしめるやわらかな音。
それは今も、秋が来るたびに蘇る大切な思い出だ。
やがて、僕は中学生になった。
祖父の背を追うことは少なくなり、代わりに自分ひとりで、あるいは友達を誘って山へ入るようになった。
子供の頃は気づかなかった山の表情――朝露に濡れた葉の手触り、風が運ぶきのこの香り、蜘蛛の巣にきらめく小さな水滴。
それらすべてが、僕の世界の一部になっていた。
その日も、友達とふたり、山へキノコ採りに出かけていた。
リュックの中には、祖母が用意してくれたおにぎりと水筒。
足元には落ち葉が敷き詰められ、歩くたびに乾いた音が響く。
収穫は順調だった。
手のひらいっぱいのクリタケやナメコ。
笑い声が森の奥に吸い込まれていく。
疲れたら、苔むした倒木に腰掛けて、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込む。
太陽はすでに西に傾きはじめ、木々の間から斜めに差し込む光が、僕たちの影を長く伸ばしていた。
「そろそろ帰ろうか」――そう声をかけた矢先、友達の叫び声が森の静寂を引き裂いた。
「うわぁっ!」
彼は突然その場に座り込み、顔を青ざめさせて動かなくなった。
僕は最初、どこかで足を滑らせて怪我でもしたのかと焦ったが、ふと彼の視線の先を追うと、頭上の枝に視線が吸い寄せられた。
そこには、信じがたい光景があった。
高さ三メートルほどの太い枝に、二体の人影。
その細い首に、荒く結ばれたロープが絡みつき、ぐらぐらと微かに揺れていた。
最初、心臓がひゅっと縮み上がる。
「まさか――」呼吸が止まり、喉がひどく渇く。
頭の中で何度も「あれは本物なのか」と自問する。
死体――。
そう思った瞬間、全身の血の気が引いていくのを感じた。
時間が止まったかのように、あたりは静まり返り、風が遠ざかっていく。
足元の落ち葉の感触も、森の匂いも、すべてが遠くなる。
友達は泣きそうな顔で僕の腕を掴んだ。
僕も、言葉を失って立ち尽くしていた。
やがて、恐る恐る目を凝らしてみると、その異様な人影は、生身の人間ではなく、古びたマネキンだとわかった。
頬や腕に亀裂が走り、色褪せた洋服。
人間のようでいて、人間ではない。
だが、それゆえの不気味さが、胸を締め付けた。
「なんだよ、これ……悪質なイタズラにもほどがある!」叫びたい気持ちを抑えきれず、心の中で毒づいた。
ようやく足を動かす気力を取り戻し、友達とふたりで森を駆け下りた。
枯れ枝を踏む音が、やけに大きく耳に響く。
家までの道のりが、こんなにも遠く感じられたことはなかった。
家に着くと、土間で息を切らしながら、父にすべてを話した。
父は、僕の話に眉をひそめ、すぐさま脚立と手斧、枝切りバサミを用意した。
その表情はどこか硬く、普段の穏やかな父とは違っていた。
僕と友達は、無言でその後ろをついていった。
再び森へ戻ると、夕方の空気はさらに冷たく、木々の影が長く伸びていた。
父は脚立を組み立てると、無言でそれに登った。
僕と友達は、脚立の足をしっかりと押さえ、息を呑みながら父の動きを見守る。
父は手斧で、マネキンの首にかかったロープを手際よく切り落とした。
バサッ――。
マネキンが地面に落ちる音が、森の静けさに妙に響いた。
僕たち三人は、しばしその場に立ち尽くした。
父は、沈黙のなかでぽつりと呟いた。
「こんなもん、早く片付けてしまおう」
マネキンは、近くで見るとさらに異様だった。
衣服は泥にまみれ、ところどころ破れ、肌はところどころ色が剥げていた。
人間らしい顔の造形も、どこか歪んで見える。
手足は不自然な角度で曲がり、指先は欠けていた。
触れると、冷たくて固いプラスチックの感触が手に残る。
僕たちは、マネキンを納屋まで運ぶことにした。
森から家までの道を、三人で無言のまま歩いた。
夕暮れの風は冷たく、頬を刺す。
背中に汗が冷えて張り付く。
納屋の中は薄暗く、木の床板からは埃と黴の匂いが立ち上る。
父は、外から斧とバールを持ち込んだ。
「人形だと分からないように、バラバラにして捨てるぞ」
父の声は低く、どこか張り詰めていた。
僕と友達は、マネキンの粗末な衣服を剥いでいく。
泥と汗のにおい、プラスチックの冷たい感触。
手が震えるのを必死で隠した。
その時だった。
マネキンの腹部に、真っ赤なペンキで大きく何かが書かれているのに気づいた。
直線的で乱暴な筆致。
「このマネキンを下ろした人間は死ぬ」――。
その赤い文字は、夕焼けに染まった納屋の薄闇の中で、異様なほど生々しく浮かび上がって見えた。
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
次の瞬間、全身が凍り付いた。
友達も、息を呑んでいる。
父も、動きを止めた。
「な、なんだよこれ……」声はかすれ、喉がひりついた。
さらに、もう一体の服をめくると、そこにも同じような赤い文字が書かれていた。
「このマネキンを下ろした人間の、最も愛する者が死ぬ」。
僕たちは、しばらく言葉を失った。
納屋の薄暗がりと、外からの風の音だけが耳に残る。
父はしばし沈黙し、やがて、静かに言った。
「……ジュースでも買ってこい」
その声は、普段よりも少しだけ優しかった。
僕と友達は、互いに顔を見合わせ、納屋から外へ出た。
外の空気は、なぜかいつもより重たかった。
自動販売機までの道すがら、僕たちは一言も言葉を交わさなかった。
心の奥底に、澱のような不安が沈殿していた。
家へ戻ると、父は既に納屋の掃除を終えていた。
マネキンの姿も、破片も、どこにもなかった。
父は何も語らず、ただ「もう大丈夫だ」とだけ言った。
その声には、何かを必死に隠すような響きがあった。
それ以来、僕と友達、そして父の間で、その出来事について語ることはなかった。
「最も愛する者が死ぬ」――あの赤い文字の呪いは、今も心の奥底に重くのしかかっている。
時折、ふとした瞬間に、あの日の冷たい空気や、マネキンの異様な姿がフラッシュバックする。
森を歩くたび、背後に何かの気配を感じることがある。
恐怖の余韻は、今も消えることはない。
あの日の森の静けさと、納屋に満ちていた薄暗い空気。
すべてが、僕たちの心に深い影を落とし続けている。
怖い話:山奥の森に吊るされた二体のマネキンと、家族を脅かす赤い呪いの文字──静寂と恐怖に満ちた禁断の午後
山奥の森に吊るされた二体のマネキンと、家族を脅かす赤い呪いの文字──静寂と恐怖に満ちた禁断の午後
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