それは二十年ほど前、梅雨明けの湿度がまだ街にこびりついている晩夏のことだった。
当時の俺は、未来に対する展望もなく、毎日をただ惰性で消費していた。
大学生活は、思い描いていた自由や刺激とは異なり、むしろ空虚で、どこか現実から切り離されたような感覚がつきまとっていた。
KとS――似たように虚無感を抱えた仲間――と過ごす時間だけが、唯一俺を現実に引き留めていた。
三人でのドライブは、夜の静けさの中でエンジン音やヘッドライトの光が闇を切り裂く、その一瞬一瞬にだけ意味が宿るようで、心のどこかが解放された。
だが、その楽しみも次第にルーティンとなり、俺たちは新しい刺激を求めていた。
ある夜、Kが唐突に「廃道を探してみよう」と言い出した。
廃道――地図から消え、記憶の片隅に追いやられた道。
廃れて久しいアスファルトや、苔に覆われたコンクリート、朽ち果てたガードレール。
そうした景色に、俺たちは理由もなく心を惹かれた。
Kのジムニーは、泥と埃にまみれながらも頼もしく、俺たちを幾度となく市街地の外れや山中の道なき道へと運んだ。
エンジンの振動が直に背中に伝わり、窓の外からは草いきれや湿った土の匂いが忍び込む。
走行中、ヘッドライトが照らすのは、夜露に光る蜘蛛の巣や、路肩でうごめく小動物の影、そして時折押し寄せる、言いようのない不穏な静けさだった。
その日、Kが「新しい廃道を見つけた」と興奮気味に切り出した。
大学から車で三十分ほど山奥へと進み、舗装が途切れる場所。
窓の外に広がる山肌は、夕暮れの薄明かりで紫色に染まり、遠くからフクロウの鳴き声が聞こえる。
道幅は徐々に狭まり、両側から迫る木々の枝葉がフロントガラスをかすかに叩き、しっとりとした空気が車内に滲み込んでくる。
やがて、俺たちは完全な行き止まりに突き当たった。
そこには、コンクリートの土留めが不自然に途切れ、錆びた金網が針金で仮止めされているだけだった。
Kは後部座席から工具箱を取り出し、無言でニッパを手に取った。
その一瞬、車内に緊張が走る。
俺たちの中に「悪いことをしている」という自覚はなかったが、どこか背徳的な高揚感が心の奥底にじわりと広がった。
Kが針金を切る「パチン」という乾いた音だけが、辺りの静寂を割った。
金網を押し開けて進むと、意外にも道は整然としていた。
路面にはまだタイヤの跡が新しく残り、草も踏み分けられている。
俺たちはホッとしつつも、どこか釈然としない違和感を覚えながら、さらにジムニーを進めた。
進むにつれ、周囲の木々は次第に密度を増し、外界の音は遠のいていく。
ラジオを切った車内には、俺たちの呼吸と、時折タイヤが小石を跳ね飛ばす音だけが響いていた。
やがて、前方にトンネルが現れた。
コンクリートのアーチは苔むし、入り口には蔦が垂れ下がっている。
ヘッドライトの光がトンネル内を照らすと、壁面に染み出た水滴がきらりと光り、湿った空気が一気に車内に流れ込む。
通過中、ジムニーのエンジン音が反響し、鼓膜の奥で奇妙なリズムを刻む。
トンネルを抜けた瞬間、外気の匂いが一変した。
どこか鉄と腐葉土が混じった、重く湿った匂い。
俺は無意識に息を浅くし、手のひらにじっとりと汗が浮かぶのを感じた。
トンネルの出口には、思いがけず鳥居が建っていた。
夕闇に浮かぶその赤い鳥居は、周囲の無機質なコンクリートとは明らかに異質で、俺たちの会話は一瞬止んだ。
Sが「おい、あれ見ろ!」と声をひそめて指さした時、俺の背筋を冷たいものが這い上がる感覚が走った。
鳥居は新しいものではなく、剥げかけた朱色の塗料がまだらに残り、柱には苔とツタが絡まっていた。
その佇まいには、長い時間をかけて忘れ去られた神域の気配が漂っていた。
不安と好奇心がないまぜになったまま、俺たちはさらに進む決断をした。
やがて舗装は途切れ、車輪は土と小石の上をゴツゴツと転がり出す。
道端には、小さな祠のようなものがぽつんと置かれていた。
屋根は朽ち、周囲には誰かが手向けた花が枯れたまま散らばっている。
俺はその光景に微かな胸騒ぎを覚えたが、なぜか引き返そうとは思わなかった。
KもSも同様に、顔に緊張の色を浮かべつつも、視線は前方に釘付けになっていた。
しばらく進むと、突然視界がひらけた。
木々が途絶え、広大な平野が目の前に現れたのだ。
夕暮れの光が草原一面を黄金色に染め、遠くで風が草を揺らす音が微かに聞こえる。
その景色は、現実感を失わせるほど美しかった。
俺たちは呆然としながら車を停め、外に出た。
大気は澄み渡り、肌をなでる風が心地よい。
だが、どこかこの場所が「現世」とは異なる空気をまとっているような、言い知れぬ不安が胸の奥でざわめいた。
視線を先に向けると、黒々とした巨大な建物がぽつんと存在していた。
それは、現代ではまず見かけないほど大きな茅葺き屋根の建造物で、周囲の景色と不釣り合いなほど異様な威圧感を放っていた。
俺たちは言葉を失い、無言のまま建物に近づいた。
足元の土は柔らかく、歩くたびに靴が沈み込む。
建物の入口には、木製の大きな扉が半開きになっていた。
中を覗くと、そこには常軌を逸した光景が広がっていた。
薄暗い内部には、太い柱が何本も立ち並び、それぞれに御札と、異様にリアルな人間の耳が打ち付けられていた。
御札には見慣れない筆跡で何かが書かれており、墨の色が今も濡れているように見える。
生臭い血とお香の混じったような匂いが鼻をつき、俺は思わず口元を押さえた。
心臓は強く脈打ち、足元から冷たい汗が流れ落ちる感覚――その場にいるだけで、体の芯が凍りつくようだった。
Kは顔面蒼白で呆然と立ちすくみ、俺は本能的に「ここにいてはいけない」と全身が警告を発しているのを感じた。
だがSが見当たらない。
慌てて建物の裏手に回り込むと、そこには無数の蝋燭が並び、微かな炎が不規則に揺れていた。
辺りには蝋が溶けた独特の臭いが漂い、わずかに焦げた芯からは黒煙が滲んでいる。
Sはその蝋燭の列の前で呆然と立ち尽くし、虚ろな目で空を見上げていた。
「太陽って、どこに出てるんだ……?」Sの声は震えており、その響きには明らかな恐怖と混乱が混ざっていた。
俺たちも空を見上げたが、なぜか太陽の位置が認識できない。
不自然な明るさと、色温度を失った空。
世界そのものが歪み、現実から切り離された閉ざされた空間に迷い込んでしまったような感覚が全身を支配した。
「もう駄目だ。
ここにいたら戻れなくなる」Kが声を絞り出す。
俺たちは無言でうなずき、Sの腕を引いて駆け足でジムニーに戻った。
走り出す車中、三人とも呼吸が浅くなり、脈拍が速まっているのがはっきりわかる。
誰も言葉を発さず、ただ前方に一点を見据えていた。
道を引き返す間、妙な静寂が車内を支配していたが、その静けさには、さっきまでとは異なる、救いの予感が混じっていた。
再び国道に出た瞬間、視界に沈みかけた太陽が飛び込んできた。
その暖かな橙色の光に照らされて、俺ははじめて現実に帰還した実感を得た。
安堵と、説明のつかない恐怖が入り混じり、しばらくは誰も口を開かなかった。
心の奥底で、あの体験が現実であったのかすら自信が持てなかった。
その後、俺たちの身には何も異変は起きていない。
だが、あの夜の出来事は、今も鮮明に脳裏に焼きついている。
あの廃道の入り口は、いつの間にか重厚な鉄製の門で封鎖され、二度と人が踏み入れられないようになっていた。
俺たち三人も、もう決してあの道に近づくことはない。
ときおり、あの時の空気の重さ、あの建物に漂っていた異様な匂い、心臓が締めつけられるような恐怖がふと蘇る。
あれは、一体何だったのか――今も答えは出ないままだ。
不思議な話:「闇に沈む廃道の彼方――大学時代、封じられた山道で出会った異界とその余韻」
「闇に沈む廃道の彼方――大学時代、封じられた山道で出会った異界とその余韻」
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