あれは、もう二十年も昔のことだ。
いまも時折、夜更けの静けさのなかで、あの日の風の匂いと、遠い山の靄が心の奥底に蘇る。
人には話せない。
いや、話したところで誰も信じはしないだろうし、そもそも自分でも、あれが現実だったのかどうか確信が持てないままだ。
大学生だった俺は、人生の岐路に立たされていたわけでもなく、ただ無為な日々を惰性で生きていた。
夢もなければ、誇れるものもない。
そんな俺には、KとSという同じように宙ぶらりんな友人がいた。
三人で夜の街をドライブするのが、唯一の娯楽だった。
だがそれも、次第に薄い霧のように飽きていった。
ある晩、Kが「新しい廃道を見つけた」と言い出した。
廃道——それは、かつて人が行き交い、いまは忘れ去られた道。
俺たちは、Kのジムニーに乗り込んだ。
窓の外、夕闇がゆっくりと山の稜線を飲み込んでゆく。
遠くでカラスの鳴き声が、まるで何かを警告するかのように響いていた。
やがて、舗装された道は細くなり、車のヘッドライトが闇を切り裂く。
土砂崩れ防止のコンクリートの壁が、途切れた箇所に出た。
Kはにやりと笑い、「ここ、いけるぜ」と金網を指さした。
誰かの手で簡単に留められた針金を、Kが器用にニッパで切る。
金属の音が山間に乾いて響いた。
悪いことをしている、という感覚はなかった。
ただ、何かから逸脱したいという衝動だけが、密やかに胸を満たしていた。
道は思いのほか整然と続き、俺たちは安堵と奇妙な高揚感のなか、トンネルへと進んだ。
湿った空気が肌を撫で、どこか苔の匂いを含んでいる。
トンネルの中は、外よりもさらに深い静寂に包まれていた。
その先で、Sが突然叫んだ。
「おい、あれ見ろ!」
トンネルの出口、朽ちかけた鳥居が闇に浮かび上がっていた。
赤い塗料は剥げ落ち、苔むした柱が異様な存在感を放っている。
誰が、何のためにここに建てたのか。
胸の奥が、氷のように冷たくなる。
「帰ろうぜ」そう口にしかけて、しかし誰も引き返そうとは言わなかった。
道はやがて舗装を失い、土の匂いが強くなる。
小さな祠が道端にぽつねんと佇んでいる。
俺たちは、言葉少なに車を進めた。
やがて、視界がぱっと開けた。
夕暮れの空の下、広大な平野が姿を現す。
どこまでも続く草むら、湿った風のなかに、遠く黒い建物がひとつ、ぽつりと見えた。
巨大な茅葺きの屋根。
異様なほど大きい。
車を停め、外に出る。
吸い込む空気がやけに澄んでいる。
鳥の声も、虫の音も消え、ただ己の心臓の鼓動だけが耳の奥で響いていた。
建物のなかを覗き込むと、そこには人間の尺度を超えた空間が広がっていた。
太い柱が何本も立ち並び、その一本一本に、無数の御札と、人間の耳が打ち付けられている。
生々しい赤黒い痕が、薄暗がりに沈んでいた。
恐怖というより、現実が音もなく崩れ落ちていくような感覚。
俺とKは、言葉もなく外に飛び出した。
Sの姿が見えない。
建物の裏手に回ると、蝋燭が無数に並べられていた。
微かな炎が、風もないのに揺れているように見えた。
「太陽って……どこにあるんだ?」と、Sが呟いた。
気づけば、空の色が何かおかしい。
太陽は昇っているはずなのに、光はどこにも見当たらない。
ただ、薄青い空だけが、静かに俺たちを見下ろしていた。
ここにいてはいけない——その直感に突き動かされ、俺たちは車へ走った。
エンジンの音が生の世界への帰還を告げる。
来た道を逆走し、トンネルを抜け、金網をくぐる。
やっとの思いで国道に出ると、夕陽が西の空に沈みかけていた。
安堵と、言い知れぬ喪失感だけが残った。
その後、俺たちの身には何も起こらなかった。
ただ、廃道の入口にはいつの間にか頑丈な門が築かれていた。
あの日見たもの、感じたもの。
そのすべてが、いまも俺の奥で、静かに、しかし確かに息づいている。
もう二度と、あの道に足を踏み入れることはないだろう。
それでも、あの空気の冷たさと、柱に打ち付けられた耳の記憶は、春の夜風のように、ふいに俺の心を撫でていく。
不思議な話:荒れ道の果て、耳の祠にて——青春の影を抱いて
荒れ道の果て、耳の祠にて——青春の影を抱いて
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