梅雨入り間近の午後、灰色の雲が町を覆っていた。
湿った空気がアスファルトにまとわりつき、遠くから微かに車の走る音が聞こえてくる。
僕は、古びたTSUTAYAの自動ドアをくぐった。
店内の空調は冷たく、外の世界と切り離されたような静けさがあった。
用を足したくなって、奥まったトイレへ足を向ける。
ドアを押し開けると、薄暗がりの中に清掃の芳香剤の匂いが漂い、どこか懐かしいような、しかし所在なさげな感覚を覚えた。
個室の扉を閉め、錠をかけ、僕は小さく息をついた。
そのときだった。
隣の個室のドアがきしんだ音を立てて開き、誰かが入ってくる。
足音がタイルを叩き、重い空気が揺れる。
普通、知らない者同士がこんな場所で交わす言葉などないはずだ。
沈黙こそが、ここでは暗黙の礼儀なのだ。
しかし、不意に壁越しに、男の低い声が響いた。
「おぅ、こんちは」
一瞬、頭が白くなった。
鼓膜を通して伝わってきたその声は、現実のものとは思えないほど不意打ちだった。
僕は、戸惑いを隠せぬまま、言葉を探した。
なぜ、今、ここで——。
「……こんちはっす」
乾いた返事が口をついて出る。
自分でも驚くほど機械的な声だった。
沈黙が数秒、流れた後、再び声がかぶさる。
「最近どう?」
その言葉は、まるで日常の雑談の続きのように、何気なく投げかけられる。
しかし、見知らぬ壁越しの相手に「最近どう?」などと訊かれる状況に、僕の心は小さな混乱を抱えたまま波立つ。
「まあ、普通だね……。
君は忙しいのかい?」
自分でも、なぜそんな返しをしたのか分からなかった。
会話を続けることにどこか義務感のようなものを感じていた。
しかし、そのとき、隣の個室から聞こえてくる声の調子が、ふいに低く、重たく変化した。
「……ちょっと、かけ直すよ。
隣に変なのがいる」
その言葉は、まるで重い石のように僕の胸に落ちてきた。
小さく呟くような声。
続いて、足音が遠ざかる。
個室の扉が開く気配。
誰かが、静かに、しかし確かに去っていった。
残された空間には、ただ機械が回る音と、芳香剤の甘い香りだけが残った。
僕は己の存在が、誰かの世界の「変なもの」として認識されたことに、妙な滑稽さと、ほんの少しの寂しさを感じていた。
外では、雨が静かに降り始めていた。
笑える話:薄明の個室――静寂を破る声のかたち
薄明の個室――静寂を破る声のかたち
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