1週間前、季節は初夏に差し掛かったばかりの金曜の夜。
湿気を含んだ夜風が、街路樹の葉をゆっくりと揺らしていた。
街灯はまだ明るさを保ち、歩道に斑模様の影を落とす。
僕の手のひらはじっとりと汗ばんでいた。
その理由は、ただ彼女の誕生日だからというだけではない。
数日前から、彼女のLINEの返信がわずかに短く、どこかよそよそしいことに気付いていた。
だが、確かな不安を認めるのが怖くて、僕はいつも通りのふりをした。
午後7時きっかり。
高級フレンチレストラン「ラ・リヴィエール」の前で、僕は彼女を待っていた。
南仏を思わせる、クリーム色の壁と蔦のツタ。
窓からこぼれる柔らかなオレンジ色の照明。
店先には香水とも料理ともつかない、芳醇な香りが漂っている。
あのレストランは、数カ月前の何気ない会話の中で、彼女が「あそこ、いつか行ってみたいな」と呟いた場所だった。
一人1万8000円のコース、普段の僕には分不相応だが、誕生日くらいは特別にしたかった。
彼女がゆっくりと歩いてきた。
淡いラベンダー色のワンピースに、黒髪を低い位置で結んでいる。
どこか硬い微笑みを浮かべていたが、僕が手を振ると、少しだけ口元が和らいだ。
歩道のアスファルトの上、ヒールの音が小さく響く。
僕は「誕生日おめでとう」と声をかけ、彼女は「ありがとう」と小さく返した。
その声は、どこか遠い場所から聞こえてくるようだった。
二人の間に流れる空気が、いつもより少し重い気がした。
店内へ入ると、薄暗い照明が天井からテーブルを個別に照らし、白いクロスの上にシルバーのカトラリーが静かに並んでいる。
水晶のようなグラスの中で、氷が微かに音を立てる。
奥の席からは、低く抑えた英語混じりの会話や、ワインを注ぐ音が聞こえた。
ウェイターが僕たちをテーブルまで案内してくれる。
彼女の隣を歩きながら、僕の心臓は異常な速さで打っていた。
彼女と隣り合って座ると、白いナプキンの上に彼女の指が震えているのが見えた。
その時だった。
彼女が店名のプレートに目を留め、ふっと表情が崩れる。
「ここ……覚えててくれたんだね」彼女の瞳がうるみ、涙が今にも零れ落ちそうになる。
僕は少し驚いて、でも嬉しくて、「もちろんだよ」と小さな声で返した。
忙しなく運ばれてきた前菜―繊細なハーブサラダがテーブルに置かれる。
その瞬間、彼女の目から静かに涙が溢れ出した。
ガラス越しに反射する涙のきらめきと、レストランの温かな光が交錯する。
僕はどうしていいかわからず、ウェイターに「すみません」と目で合図した。
ウェイターは長年の経験からか、そっと視線を外し、空気を読んでくれた。
彼女は手で涙を拭うが、涙は止まらない。
僕は不安と戸惑いを隠せず、「そんなに泣くなよ、今日は誕生日だし……ここ、来たかったんだろ?」と声をかける。
自分の声がやけに大きく響き、隣のテーブルから祝福のような微笑みが向けられる。
だが、彼女は首を横に振って「違うの……違うの……」と嗚咽まじりに繰り返す。
僕は呼吸が浅くなり、食道の奥が詰まるような感覚に襲われた。
彼女の涙の意味が、まだ理解できない。
皿の上のサラダの鮮やかなグリーンも、口の中のワインの芳醇さも、まるで味がしない。
彼女が顔を上げた。
「別れたいの、ごめんね」その声は、想像以上に大きく、そしてはっきりと響いた。
店内のざわめきが一瞬で消え、空気が止まる。
僕の全身の筋肉が固まり、心臓が凍りつく。
誰かがナイフをテーブルに落とした音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「えっ、ちょっと……落ち着こう、ワインでも頼む?」動転した僕は、思わず意味のない言葉を口走る。
彼女は「ごめんね! 本当にごめん!」と叫び、椅子の背を強く押して立ち上がる。
その瞬間、椅子が床を引きずる高い音が店内に響いた。
彼女は涙を残したまま、レストランを駆け出していった。
僕は茫然と座り続け、周囲の視線が全身に突き刺さる。
どこかから香るバターと肉の香りが、むしろ胸焼けを誘った。
ウェイターが気まずそうにスープの皿を運んでくる。
「帰るなら今ですよ」とでも言いたげな視線。
その沈黙の圧力に耐えきれず、僕は「美味しそうだね」と無理やり笑い、震える手でスプーンを取った。
口に入れた瞬間、熱いスープが舌を焼く。
味なんて何も感じない。
ただ、喉の奥を熱が通り抜けていくだけだ。
頭の中には、「死にたい」という言葉がよぎる。
でも、周囲の目を意識して、あくまでも平然を装い、「何か?」という顔をして食事を続ける自分が情けなかった。
時が止まったような空間で、メインディッシュの肉料理が運ばれる。
ナイフを入れるたび、肉汁がゆっくりと皿の上に広がる。
フォークの先が小刻みに震える。
ふと視線を感じて振り返ると、店の入り口に彼女が立っていた。
驚きと安堵と、説明のつかない嬉しさが一気に胸を満たす。
怒りよりも心配が勝った。
「大丈夫? どうしたの?」と声をかける。
店内の客やスタッフたちも、どこか安堵した空気を漂わせる。
だが、彼女は無言で僕の横の椅子に駆け寄り、そこに置き忘れた携帯電話をぎゅっと握りしめた。
そして、再び僕の目を見ることなく、店を飛び出していった。
彼女の髪が揺れ、店のドアが重く閉まる音が、妙に大きく響いた。
辺りに張り詰めた緊張のヴェールが戻る。
僕は空っぽの椅子を見つめ、何も言えずにいた。
ウェイターがそっと近づいてきて、「デザートは……いかがしますか」と小声で尋ねる。
その声は、まるで店内の空気を壊さないように配慮した、静かなさざ波のようだった。
そうだ、バースデーケーキを注文していた。
苺と生クリームで飾られた、彼女の好きなショートケーキ。
だが、今それを食べることなどできるはずもない。
「……無しでお願いします」僕は俯いたまま、かすれた声で答えた。
会計を済ませると、店は合計2万円で計算してくれた。
細やかな優しさが、逆に胸に突き刺さる。
外に出ると、夜風はすでに冷たく、湿った空気が頬を刺す。
遠くから聞こえる自転車のベルや、誰かの笑い声が、やけに現実感をもって耳に残った。
僕は深く息を吸い、吐き出し、ゆっくりと歩き出した。
通りの灯りの下、影は長く伸びていた。
それから1週間が経った今も、あの夜の光景と音と匂いは、鮮明に記憶に焼き付いている。
彼女の涙の温度、レストランの静かなざわめき、胸の中に残る重い沈黙。
それでも、不思議と僕は元気だ。
過去と現在の狭間で、少しずつ歩き出せている気がする。
切ない話:高級フレンチレストランでの誕生日の夜、涙と別れと静寂に包まれた七日間の記憶
高級フレンチレストランでの誕生日の夜、涙と別れと静寂に包まれた七日間の記憶
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