別れは、いつも突然に訪れるものだ。
だが、その夜の別れは、あまりにも残酷なまでに演出されていた。
*
六月の終わり、都心のアスファルトが午後の陽射しに熱せられている。
夜の帳がゆっくりと降りはじめる頃、僕は駅前の広場で彼女を待っていた。
空気は湿っぽく、遠くで夕立の匂いが微かに混じる。
「ごめん、待った?」
小走りに現れた彼女は、少しだけ息を弾ませていた。
長い髪を耳にかける仕草が、なぜかやけに幼く見えた。
「いや、ちょうど来たとこ」
僕は思わず、ありきたりな台詞で応じていた。
何もかもが、今日だけは特別にしたかったのに。
彼女の誕生日だった。
僕は、ずっと前から彼女が行きたがっていたフレンチレストランを予約した。
白いテーブルクロスと、グラスの中で揺れるキャンドルの灯り。
店の前にたどり着いたとき、彼女は立ち止まった。
「ここ……覚えててくれたんだ」
その声は、かすかに震えていた。
瞳の奥に光るものを見て、僕の胸の奥にも小さな痛みが走る。
僕は、彼女の背をそっと押し、店内へと導いた。
*
サラダが運ばれてくる。
フォークを持つ彼女の手が、わずかに震えている。
涙が頬を伝い、テーブルクロスに落ちる音が聞こえそうだった。
「そんなに泣くなよ、ほら……今日は君の誕生日だろ? ずっと来たかったって言ってたじゃないか」
僕は、できるだけ明るい声でそう言った。
だが、彼女は黙ったまま、ただ首を横に振る。
「違うの……違うの……」
彼女は嗚咽を漏らす。
その声は、他の客たちの談笑をすっと吸い取ってしまうほど、痛々しく響いた。
僕はどうしていいか分からず、ワインリストを手にしてみせる。
「とりあえず、ワインでも頼もうか……?」
言葉が空回りした。
目の前で彼女が、静かに唇を震わせる。
「別れたいの、ごめんね」
その瞬間、時が止まる。
レストランの空気が、ガラスのように張りつめる。
ウェイターが皿を持ったまま立ち止まり、隣のテーブルの老夫婦が、ふと僕らを見る。
「え……? ちょっと待って、何言って……」
僕の声は、まるで他人のもののようだった。
彼女は席を立ち、涙で濡れた瞳で僕を見つめる。
「ごめんね、本当に……ごめん!」
叫ぶように言い残し、彼女は店を飛び出していった。
僕は椅子に座ったまま、動けなかった。
目の端に、他の客たちの視線を感じる。
羞恥と混乱が、体の奥でぐらりと沸き上がる。
ウェイターが、静かにスープを運んでくる。
その瞳が「帰るなら今ですよ」とでも言いたげだった。
僕は、なぜかスプーンを手に取り、スープを口に運んだ。
塩気がいつもより強く感じられた。
『死にたい』
そんな言葉が脳裏をよぎる。
だが、僕はなぜか、淡々とコース料理を食べ始めていた。
『何か?』とでもいうような無表情で、ただひたすらに。
メインディッシュの肉が運ばれてきた。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐるが、味はほとんど感じなかった。
ふと、背後に気配を感じて振り返る。
そこに、彼女がいた。
驚きよりも、安堵が先に立つ。
「心配したよ……どうしたの?」
僕は、思わず声をかけていた。
彼女は無言で、椅子の上に忘れていた携帯電話を手に取る。
そして、何も言わず、再び走り去っていった。
店内の空気は、再び冷たく張りつめる。
ウェイターが、囁くように訊ねる。
「デザートは……どうなさいますか?」
僕の胸の奥に、バースデーケーキのことが蘇る。
こんな夜に、食べられるはずがない。
「……無しで」
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
店を出るとき、会計は二万円ちょうどにしてくれていた。
その優しさが、また胸に刺さる。
*
あれから一週間。
窓の外には、早朝の霞が漂い、街を薄絹のように覆い隠している。
僕は、あの夜のことを思い出すたび、胸の奥に小さな穴が残っているのを感じる。
だが、時間は確かに、少しずつ前へ進んでいく。
苦いコーヒーをすすりながら、僕は今日も歩き出す。
もう、いい。
全て終わったのだ。
それでも、誰かの誕生日には、どこかで静かに鐘が鳴るのかもしれない。
切ない話:涙の余韻と沈黙のフレンチ――誕生日に終わる恋の夜
涙の余韻と沈黙のフレンチ――誕生日に終わる恋の夜
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