静謐な家に漂う死の気配と、子供の無垢な一言が暴く異常な日常

夜の帳が下りると同時に、あの家には重く湿った沈黙が流れ込む。
郊外の住宅地、道路に面して並ぶ家屋の一つ──外壁の白さは薄暗い街灯の下でくすみ、雨あがりの空気がどこか鉄錆びた匂いを帯びていた。
家の窓越しに薄く漏れる電灯の光は、カーテンの隙間から路地に細く滲んでいたが、その明かりさえもどこか冷たく、まるで住人たちの心の内を映し出しているかのようだった。

夫婦の間にはかつて、笑い声や温もりがあったのかもしれない。
しかし今、その面影は跡形もなく消え失せていた。
居間に響くのは、互いの声がぶつかり合い、割れるような音となって空気を切り裂く喧騒。
怒号と悲鳴が交錯するたび、壁にかけられた古びた時計が震えるように時を刻み、窓ガラスが鈍く共鳴した。
夜毎繰り返される争いは、もはや日常の一部にすらなっていた。

その夜もまた、湿気を帯びた春の夜風が窓の隙間から忍び込み、室内の空気をさらに重苦しくしていた。
夫の額からは冷や汗が流れ落ち、喉の奥には苦い鉄の味が広がっていた。
妻の瞳は、怨嗟と恐怖とで曇り、声を荒げるたび微かに震えていた。
二人の間に漂うのは、もはや愛情ではなく、長年の積もり積もった憎悪と、互いを傷つけずにはいられない衝動だけだった。

そして、ある瞬間、言葉は限界を超え、怒りが理性を押し流した。
夫の指先が、まるで他人のものになったかのように妻の喉元へと伸びた。
爪が肌に食い込み、妻の目が大きく見開かれる。
その瞬間、時間が異様に引き延ばされた。
妻の口から漏れた最後の息が、夜の冷たい空気を震わせ、やがて静寂がすべてを包み込んだ。

部屋には死の気配が満ち、壁紙の模様でさえもどことなく陰鬱に見えた。
夫は、呼吸が浅く早くなるのを止められず、耳鳴りが頭蓋を打つ。
その場に立ち尽くし、手のひらを見つめながら、現実感のない世界に取り残された。
心臓は乱暴に胸を叩き、喉は乾ききって唾も飲み込めない。
やがて、夫は震える足取りで妻の亡骸を引きずり、家の奥深く──湿った床下、積年の埃が溜まる物置の暗がりへと隠した。
汗と恐怖と埃の臭いが混じり合い、夫の鼻腔を刺す。
重い沈黙が、まるで罪そのものとして家全体を圧迫するようだった。

だが、これで全てが終わったわけではなかった。
夫と妻の間には幼い子供がいた。
小さな足音、部屋の隅で遊ぶ気配、時折無邪気に発せられる笑い声。
それらが、夫の不安を絶えず揺さぶり続けた。

──この子に、どうやって説明すればいいのか。

夫の内心には、焦燥と動揺、そして罪悪感が渦巻いていた。
子供の純粋な目が、何も知らずに夫を見上げてくるたび、背筋が凍るような感覚に襲われる。
まるで、子供の無垢な視線には全てを見抜かれているかのようだった。

数日が過ぎ、家の中の空気はさらに重く淀んでいった。
朝は薄明かりが差し込むも、壁際にはいつも影が濃く、床には湿り気が広がっていた。
冷たい食卓、ぎこちなく並べられる朝食。
夫は無理やり普段通りを装い、子供にも平然を装って接した。
だが、ときおり手が震え、声がかすれ、目を合わせることすら躊躇う自分に気づいていた。

──もしや、この子も母親を嫌っていたのか？
夫はふと、そんな邪悪な希望すら抱いた。
だが、いくらなんでも母親の話題が一切出ないのは不自然だった。
目の前でご飯を食べる子供は、時折無表情で、まるで何かを知っているかのようにも見えた。
母親の不在について一言も触れず、ただ静かに、父親の言葉に頷くだけ。
その静寂の中に、何か得体の知れない不安が忍び込む。

日が昇り、沈み、やがて一週間が経ち、月も変わろうとしていた。
夜になると、物音一つしない家の中で、夫は自分の呼吸すら気味悪く感じるようになった。
時計の針が進む音、冷蔵庫の微かな唸り、時折軋む床の音。
どれもが、夫の心に針のように刺さった。

そしてある晩、夫はついに堪えきれなくなった。
夕食後の静かな時間、子供が本を読んでいる傍らで、夫は不自然に咳払いをした。

「なあ……○○、お父さんに、何か聞きたいことはないか？……例えば、お母さんのこととか……」
言葉の端々に震えが混じり、声は妙に低く掠れていた。
部屋の空気は一層冷たく、時計の秒針だけが静かに進んでいた。

子供は、一瞬だけ顔を上げた。
瞳は深く澄み、どこか遠くを見つめるような無垢なまなざし。
その唇がゆっくりと動いた。

「ん〜……なんでお父さんは、いつもお母さんをおんぶしてるの？」
その瞬間、夫は全身の血が凍りつくのを感じた。
心臓が一度大きく跳ね、呼吸が止まる。
子供の声はどこか夢うつつのようで、その言葉は空間に長く残響した。
背後の闇がさらに濃くなり、夫は自分の背中に、重く冷たい何かの気配がまとわりついているのを、はっきりと感じた──。

家の中には、もう一度、深い沈黙だけが満ちていた。