怖い話:薄明の家に、母の影は消えず

薄明の家に、母の影は消えず

📚 小説 に変換して表示中
朝靄が街を薄絹のように包み込んでいた。
六月の湿った空気が家の中にも滲み入り、壁紙の裂け目をゆっくりと伝っていく。
男はキッチンの窓辺に立ち尽くし、冷めたコーヒーを口に運んだ。
苦味が喉を滑り落ちるたび、昨夜の口論が蘇る。
いや、あれは口論などという生易しいものではなかった。

 彼と妻は、長いあいだ互いの心に小さな棘を刺し続けてきた。
些細な言葉が、無言のうちに積み重なり、いずれは取り返しのつかない裂け目となったのだ。
あの日、雨の音が窓ガラスを叩く夜、二人は最後の言葉をぶつけ合い、ついに男は—自分でも信じられぬ形で—妻をこの世から消してしまった。

 遺体を隠した夜の冷たさ。
床にこぼれた古いワインの匂いと血の気配が、今も鼻腔に残っている。
男は、まるで何事もなかったかのように朝食の卵を焼き、新聞をめくり、子供の前ではいつもの父親を演じた。
しかし、心の奥底では重い鎖のような後悔が、じりじりと彼を締めつけていた。

 問題は、まだ終わっていない。
彼らの間にはひとりの子供がいた。
幼いその瞳には、世界のすべてがまだ謎に満ちているはずだった。

 ——どう説明すればいい? 母を、どこへやったのかと訊かれたら?

 男は不安を胸に隠し、日々を重ねた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込むたびに、妻がいないことの不自然さが、家中に静かに広がっていく。
しかし、驚くべきことに、子供は母親の行方を尋ねることがなかった。
まるで初めから、その存在ごと忘れ去ってしまったかのように。

 一週間が過ぎ、さらに日々は重なった。
カレンダーの数字が音もなく塗り替わり、季節は梅雨へと移り変わっていく。
雨上がりの土の匂いが、幼い頃の記憶を呼び覚ます。
男はふと、息子の食卓での無言に目を留めた。
スプーンの音だけが、静まり返った部屋に響いていた。

 もしかすると、この子も母親を嫌っていたのだろうか。
だが、いくら子供だとはいえ、ここまで話題にすら出さないのはあまりにも不自然だ。
かすかな違和感が、やがて確信へと変わっていく。

 ある蒸し暑い夕暮れのことだった。
窓の外では茜色の空が、一日の終わりを静かに告げている。
男は意を決して、息子の前に腰を下ろした。
手のひらの汗が、現実の重みを伝えてきた。

 「なあ……○○、お父さんに、聞きたいこととかないか? たとえば、その……お母さんのこととか」

 息子は、しばらく黙っていた。
スプーンを持つ小さな手が、わずかに震えている。
やがて、彼は首を傾げて、無垢な声でこう言った。

 「んー、なんでお父さんは、いつもお母さんをおんぶしてるの?」

 その瞬間、男の心の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちていった。
部屋の中の空気が、急に冷たく、重くなった気がした。
遠くで電車の警笛が、まるで寂しげな獣の遠吠えのように響いている。

 振り向けば、薄明の家のどこかに、まだ妻の影が消え残っているような気がした。

 それは、彼だけが背負うことのできる、終わらぬ夜の重さだった。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中