あの日、私は初夏の湿気が部屋にまとわりつく休日の午後、長年使ってきたスマートフォンの動作が重くなったことをきっかけに、新しい携帯を購入しようと決意した。
窓から差し込む薄曇りの光は、リビングの壁にやわらかな影を落としている。
家族の誰もが出払った静けさの中、私はゆっくりと椅子に腰掛け、次の機種について思いを巡らせていた。
新しい携帯を手に入れることは、私にとって小さなリフレッシュでもあった。
最寄りの携帯ショップは、光沢のあるタイル床と、蛍光灯が白々と照らす清潔な空間。
ガラス越しに道行く人々の足音がかすかに響き、冷房の涼しさが微かに肌を撫でる。
受付カウンターの向こうに立つ店員が、にこやかに「本日はどのようなご用件でしょうか」と声をかけてきた。
私は胸にわずかな期待を抱きながら、機種変更の旨を伝える。
だが、その瞬間、店員の表情に微かな翳りが走る。
「申し訳ありませんが……お客様のご契約には未納料金がございます」と、どこか申し訳なさそうに低い声で告げられた。
私は一瞬、耳を疑い、次の瞬間には心臓が早鐘を打つ。
背筋を冷たい汗が伝い、空気が急に重くなったように感じた。
未納料金など、思い当たる節がまったくない。
私は毎月、数年来、一度も遅れることなく引き落としを確認してきたはずだった。
店員に促されるまま、契約内容を確認してもらう。
パソコンのキーボードを打つ音が、やけに大きく響く。
数分後、無機質なディスプレイに映し出された契約情報に、私は目を凝らした。
そこには、私が知らないはずの電話番号と、見覚えのないiPhoneの機種名が並んでいた。
私の名義で登録されているという事実が、現実感を伴わず、まるで他人事のように頭上を通り過ぎていく。
「こちら、ご契約はお客様ご本人の名義になっておりますが……」店員の声は、私の混乱を映すようにやや緊張気味だった。
私は、思考が追いつかないまま、過去数カ月の出来事を脳内で一つひとつ検証し始める。
なぜ、こんなことが――。
さらに、未納料金をすべて支払っても、その端末に関しては分割払いが認められず、本体代金を一括で支払わなければならないと通告された。
頭が真っ白になる。
毎月の家計簿に記録していた支払い履歴、そして家族の誰にも心当たりがないこと――すべてが裏切られたような、居心地の悪い感覚が胸を締め付けた。
私は、帰宅後に家中を探し回った。
郵便受けの隅、机の引き出し、娘の部屋のベッド下。
埃と紙の匂いが混じった空気の中で、見覚えのない督促状の束を発見したのは、夕闇が窓の外に沈み始めた頃だった。
その封筒の宛名は、確かに私の名前だった。
しかし、そこに書かれた番号はやはり知らないもの。
徐々に、胸の奥に不安の色が濃く広がっていく。
やがて、私は娘を問い詰めることになった。
リビングのテーブル越しに向かい合うと、娘は初めて見るような怯えた目をしていた。
私の声は、極限まで抑えても震えている。
「この番号、知ってる?」沈黙の隙間に、時計の秒針の音が際立って聞こえる。
娘はしばらく俯き、指先をぎゅっと握りしめていたが、ついにぽつりと真実を語り始めた。
実は、小学生の娘が、私の免許証を引き出しからこっそり持ち出し、さらに娘自身のお年玉用の通帳と印鑑まで忍ばせて、私に黙って携帯ショップへと足を運んでいたのだった。
その行動力と計画性に、私は驚愕し、言葉を失った。
娘は、ひとりでショップの自動ドアをくぐり、ガラス張りの空間に足を踏み入れていたという。
店内の眩しい照明、カウンター越しの大人たちの視線、娘の小さな手が震えていたであろうことを想像すると、胸の奥がひどく痛んだ。
「保護者の方はご一緒ですか?」と店員に問われた際、娘は「来られません」とだけ答えたという。
その一言で、私名義の新しいiPhoneが、娘の小さな手に渡ったのだった。
箱を開けるときの高揚感、初めて触れるガラスの冷たさ、起動音――娘が感じたであろう喜びと、同時に抱いていたであろう罪悪感。
そのすべてが、いま私の胸の中で複雑に絡まりあっていた。
しかし、やがて娘の預金残高が尽き、月々の支払いが滞ることになる。
未払いが続くうち、私の名義はブラックリストに登録され、契約上の信用が大きく損なわれてしまった。
督促状はすべて、娘が私に悟られぬように隠していたと白状した。
私は言葉にならない怒りと、深い悲しみの狭間で、ただ肩を震わせるしかなかった。
夜が更けても、私は眠れなかった。
天井のシミが、ぼんやりとした月明かりに浮かび上がる。
胸の内に押し寄せるのは、娘に対する怒りだけではない。
なぜ、携帯ショップは小学生ひとりに、書類さえ揃っていれば端末を売ってしまうのか――その杜撰さへの疑念が、心の奥底から湧き上がる。
私はカスタマーセンターに電話をかけ、事の経緯を説明したが、淡々としたオペレーターの声で「そのようなことは絶対に起こりえません」と断言された。
家族間での機種変更なら委任状があれば可能だが、新規契約は必ず本人が来店する必要があり、代理は認められていないという。
私の声は震え、手のひらはじっとりと汗ばんでいた。
自分が親として気づかなかったことへの自責、娘の幼い衝動、そして社会のシステムの穴。
すべてが渦を巻いて、私の心を締め付けていた。
次は、購入した店舗に直接足を運び、真実を確かめるつもりだ。
この一件で傷ついたのは、私たち家族だけではない。
日常に潜む小さなほころびが、こうして取り返しのつかない事態へと発展してしまうこと――その怖さと、どうしようもない悲しみが、今も私の胸に重くのしかかっている。
深夜、私はリビングのソファに座り、静まり返った家の気配を感じていた。
娘の寝息が遠くから微かに聞こえる。
私はただ、もう二度とこのような悲しいすれ違いが起こらぬようにと、祈るような気持ちで窓の外の星を見上げていた。
修羅場な話:娘の隠された秘密と、静かに崩れる日常――携帯ショップで明かされた真実の夜
娘の隠された秘密と、静かに崩れる日常――携帯ショップで明かされた真実の夜
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