新しい朝が、薄いカーテン越しに部屋を淡く照らし始めていた。
私はベッドの上で、昨夜の眠気を引きずったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
窓の外では、まだ湿り気を帯びた初夏の風が街路樹の葉を揺らしている。
けれど、私の心は透明な水面のようには澄みきらなかった。
その日、携帯電話を買い替えようと、小さな決意とともにショップの自動ドアをくぐった。
カウンター越しの店員は、無機質な微笑みを湛えて言った。
「未納の料金がございますので、お手続きができません。
」
耳にしたことのない響きだった。
未納? 思わず自分の胸を指で押さえ、喉の奥がきゅっと締まる。
毎月、支払いはきちんと済ませているはずだった。
なのに、どうして——。
再び、無機質な声。
「未納を解決されても、今後は分割払いがご利用いただけません。
本体代金は一括で。
」
目の前の風景が、少し遠ざかったように感じた。
薄明かりの中で、現実がゆっくりと形を変えていく。
理由の分からぬ不安が、背中をひたひたと這い上がる。
「調べていただけますか?」私は、かすれた声で頼んだ。
背後の事務所に消えた店員は、数分後に戻ってきた。
彼の手元の画面には、私の知らない番号が、黒い文字で浮かび上がっていた。
「こちら、お心当たりはありますか?」
いいえ、と首を振る。
だが、名義は私。
疑いようのない、私の名前。
さらに調べてもらうと、見覚えのないiPhoneの存在が明らかになった。
私はそのとき、誰かが私の影を踏みつけているような、妙な寒気を覚えた。
目の奥がじんわりと痛んだ。
*
帰宅すると、夕暮れが部屋の隅々に静かに忍び込んでいた。
娘のランドセルが廊下に転がっている。
私は台所で湯を沸かしながら、昨夜の督促状のことを思い出していた。
そういえば、最近は郵便物が妙に少ない。
何かが、私の暮らしからこっそり消えている。
娘の部屋に入ると、彼女は無邪気にタブレットをいじっていた。
私は意を決して、問いかける。
「ねえ、知らないiPhone、心当たりない?」
娘は一瞬、動きを止めた。
あの無垢な瞳が、わずかに揺れる。
「……ごめんなさい。
」
静寂が落ちた。
湯沸かし器のかすかな音が、遠い波のように聞こえる。
「ママの免許証と、私のお年玉の通帳と、ハンコ……こっそり持ち出して、携帯ショップに行ったの。
」
彼女の声は震えていた。
小さな背中が、影のように頼りなかった。
「どうして、そんなこと……?」
娘は俯いたまま、ぽつりと言った。
「『保護者は?』って聞かれたけど、『来れない』って言ったら、売ってくれたの。
」
言葉が、私の心の奥に鋭く突き刺さる。
怒りと悲しみが、渦を巻いて胸の中に押し寄せる。
けれど、叫ぶことはできなかった。
私にも、娘をここまで追い詰めてしまった責任があるのだ。
*
次の日、私はお客様センターに電話をかけた。
機械的な声が何度も繰り返す。
「そのようなことは絶対にできません」。
新規契約は、代理受付は不可——。
記憶の底で、何かが崩れる音がした。
現実は、私たちの常識よりも、ずっと脆く歪みやすいものなのかもしれない。
私は決意する。
今度、購入店に足を運び、事の真相を確かめようと。
*
夜。
窓の外は、月明かりに薄く照らされている。
娘はすでに眠っていた。
私は片手に未納の督促状を握りしめ、静かに目を閉じる。
苦いコーヒーの後味が、喉の奥に残っていた。
「私が悪いのだろうか。
娘だけを責めて良いのだろうか。
携帯ショップは、本当に何も悪くなかったのだろうか。
」
問いは繰り返し、夜の闇に吸い込まれていく。
答えのないまま、私は眠れずにいた。
薄明の街。
まだ誰も知らない朝が、静かに近づいていた。
修羅場な話:薄明の影—娘と私と、見知らぬiPhoneの夜
薄明の影—娘と私と、見知らぬiPhoneの夜
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