孤独と怒号が満ちる店内で、静かに積み重ねた反撃の瞬間──大学時代アルバイト先での濃密な日々と、崩壊の予兆

大学生活が始まって間もない春の終わり、私は新生活への期待と少しの不安を胸に、大学近くのこぢんまりとした飲食店でアルバイトを始めた。
店は古びた看板とくすんだガラス窓が印象的で、昼下がりには西日が斜めに差し込み、埃が浮かぶ空気の中に薄くコーヒーと油の匂いが漂っていた。
カウンターは長年の使用で木目が擦り減り、厨房からは時折鍋と包丁がぶつかる乾いた金属音が響く。
外からは大学生たちの笑い声と、通り過ぎる自転車のきしむ音が混じり合い、店内は常にざわめいていた。

私は入店してまだ数日しか経っておらず、制服のエプロンもまだ真新しく、手指に馴染んだ感触もなかった。
レジの操作、食器の片付け、注文の取り方など、すべてが初めての経験で、覚えなければならないことが山積みだった。
だが、店長とその取り巻きである古株のスタッフたちは、「わからないことがあれば何でも聞いて」と口では言うものの、実際に質問を重ねても、私の声は壁に吸い込まれるように無視された。
時には視線すら合わず、彼らの間に流れる会話や笑い声の輪郭が、私には遠い世界のものに感じられた。

ある日の午後、カウンターの向こうで店長が突然声を荒げた。
彼の怒鳴り声は、店内のざわつきすら一瞬で凍りつかせた。
「○○さんはすぐにできるのに、なんで君はできないんだ！」。
客の前で容赦なく浴びせられる叱責。
周囲の視線が私の背中に突き刺さる。
心臓が跳ね上がり、冷たい汗が背中を伝う。
喉がひどく渇くのに、口を開く勇気が出ない。
しばらくして、意を決して「もっとしっかり教えてほしい」と訴えると、店長はあからさまに聞こえないふりをした。
私の言葉は、まるで誰にも届かない真空に吸い込まれていくようだった。

それからの日々、私は孤独と屈辱の中でひたすら仕事を覚えた。
深夜、アパートに戻っても、頭の中では店長の怒声と、自分の情けない返事が何度もリフレインする。
眠りにつく前、天井の染みをぼんやり見つめながら、「なぜ自分だけがこんな扱いを受けるのか」と自問した。
だが翌朝になれば、私はまた制服に袖を通し、重い空気の中へと足を踏み入れた。
少しずつ要領を覚え、仕事をこなせるようにはなったが、私の心の奥には常に「認められたい」「誰か味方がほしい」という渇望が渦巻いていた。

そんな中、私よりも後に入った新人たちは、店長の理不尽な叱責に次々と耐えきれず、短い期間で辞めていった。
ベテランのスタッフですら、気づけば一人、また一人と静かに姿を消していき、店内は常に人手不足の状態だった。
残された者たちの表情には、疲労と諦めが濃く刻まれていた。
誰もが「いつまでここにいられるだろう」と、どこか遠い場所を見るような目をしていた。

ある日の夕暮れ、ショッピングセンターが市内にできるというニュースが店に広まった。
まだ明るさの残る空に、工事中の巨大な建物のシルエットが浮かんでいた。
その日も店長の気分は不機嫌で、私はいつものように小さなミスを咎められた。
彼は私の胸元に顔を近づけ、低い声で「うちを辞めて、そこで面接受けたらどうだ？まあ、どうせ受からないだろうけどな」と吐き捨てるように言った。
彼の口調には侮蔑と挑発が混じり、吐息に混じるタバコの残り香が鼻をついた。

その瞬間、私の心の中で何かが音を立てて切れた。
鼓動が早くなり、手のひらがじんわりと汗ばむ。
自分でも驚くほど冷静な声で、私は「実はもう辞めるつもりでした。
新しい職場にも採用されています」と伝えた。
店長は一瞬、言葉を失い、顔から血の気が引いた。
沈黙が店内を包み、厨房の換気扇の音だけが妙に大きく響いた。
すぐに店長は早口で言い訳を並べ始めた。
「本気で辞めろなんて言っていない」「人手不足なのはわかってるだろ」「誰が君の仕事を引き継ぐんだ」と、次々に矢継ぎ早に繰り出される言葉。
その声色には、これまで見たことのない焦りと動揺が滲んでいた。

その様子を見ていた他のバイト仲間の一人が、静かに、しかしはっきりと「自分さんが辞めるなら、俺も辞めます」と告げた。
店長の顔が強張り、唇がわずかに震えていた。
その表情は、これまで権力を誇示していた男のものとはまるで別人だった。
私はその瞬間、初めて自分がこの店で存在していた意味を実感した気がした。

結局、私と「辞める」と言ったバイト仲間、さらにもう一人が同時に退職することとなった。
彼らは店にとって重要な戦力で、店長は最後まで「お前のせいだ」と私を責め続けた。
その言葉には、もう以前のような力はなかった。
退職の日、制服を脱いだとき、私は不思議なほど心が軽く、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるような解放感を覚えた。

その後、店には一度も足を運ばなかったが、ある日偶然、ショッピングセンターで元警備員の男性と再会した。
彼と立ち話をする中で、店の近くに競合店ができ、さらに店長が客とトラブルを起こすなどして、店の評判は急落したという話を聞いた。
今では、かつての常連客も離れ、残っているのは店長とその取り巻きだけになったらしい。
私は、かすかに店内に漂っていた焦げた油の匂いと、店長の怒号を思い出した。

昨日、何気なくその店の前を通りかかった。
かつて土曜の昼には満車だった駐車場は、今や閑散としていて、アスファルトに伸びる夕暮れの影が寂しげだった。
窓越しに見える店内は、がらんと静まり返り、客の姿はなかった。
少しだけ意地悪だが、私は胸の内に静かな溜飲が下がるのを感じた。
あの日々を思い出しながら、今この物語を書き留めている。
くだらない話かもしれないが、私の中では確かな終わりと、新しい始まりだったのだ。