スカッとする話:春霞の向こう、遠ざかる店の灯――あるアルバイト青年の回想

春霞の向こう、遠ざかる店の灯――あるアルバイト青年の回想

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春の気配が街を覆い始めたころ、私は大学近くの小さな飲食店でアルバイトを始めた。
朝靄が薄絹のように商店街を包み、店のガラス窓には昨夜の雨がまだ名残をとどめていた。
はじめて制服に袖を通したとき、心の内側で小さな予感がくすぶっていたが、それが何なのか、当時の私はまだ知らなかった。

 厨房の奥、油の匂いと食器のぶつかる音が絶え間なく響く。
店長は無愛想な男だった。
冷たい視線が、鋭い刃物のように私の失敗を見つけては突き刺してくる。
最初の一週間は、手探りで物事を覚えようと必死だった。
だが、教えると言いながら、店長もその取り巻きも、私の問いかけには薄い壁を作るばかりだった。

 ある昼下がり、安っぽい蛍光灯の下、店長の怒声が客席に響く。

「○○さんはできるのに、なんで君はできないの?」

 その言葉は、蒸れた空気よりも重く、私の胸に沈んだ。
客たちの視線が一斉に私に集まり、熱く、痛かった。
私はただ、教えてほしいと願っただけだったが、店長はその声を砂に吸い込ませるように無視した。

 日々、我慢と努力で自分を磨り減らしながら、ようやく仕事を覚えた。
けれど、新しく入る仲間は、次々に店長の鋭利な言葉に傷つき、去っていった。
ベテランたちも一人、また一人と消え、店はいつも人手不足に喘いでいた。

 春の終わり、桜の花びらが風に踊るある日、店長はいつものように私を罵倒し、そしてふいに言った。

「うちを辞めて、あそこのショッピングセンターで面接受けたら?どうせ受からないだろうけど」

 その瞬間、何かが音を立てて心の奥で崩れた。
私は静かに、しかし確かな声音で告げた。

「実はもう、採用されたんです。
今日、退職願を出すつもりでした」

 店長の顔が、茜色の空に浮かぶ雲のように揺らいだ。
狼狽し、早口で言い訳を並べ立てる。

「本気で辞めろなんて言ってない。
人手不足なのは知ってるだろ。
誰が仕事を引き継ぐんだ」

 その姿を見ていた他のアルバイトが、ぽつりと呟いた。

「(自分)さんが辞めるなら、俺も辞めます」

 店長の顔が凍りつき、あたりに一瞬、静寂が降りた。
私は、その表情を今も忘れない。

 その後、私ともう二人の仲間は、春の終わりに店を去った。
店長は「お前のせいだ」と最後まで私を責め続けたが、不思議と心は静かだった。
何か、長い冬が終わったような気がした。

 季節がめぐり、夏の光が街に満ちるころ、私は偶然、ショッピングセンターでかつての店の警備員と出会った。
彼は、店の今を語った。
近くに似た店ができ、店長は客と諍いを起こし、店は閑古鳥が鳴くばかり。
残ったのは、店長とその取り巻きだけ。

 昨日、私はふと思い立ち、かつての店の前を歩いた。
夕暮れの光が薄く差し込む。
かつては満車だった駐車場ががらんとして、店内には客の姿もなかった。

 胸の奥で、ひとすじの冷たい風が吹いた。
しかし、どこかで静かな満足が広がっていくのを感じた。

 春霞の向こう、遠ざかる店の灯。
青春の苦い思い出が、過ぎ去った季節の一幕として静かに心に沈んでいった。
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