あの日の午後、オフィスには独特の静けさが漂っていた。
窓から射し込む陽の光がブラインドの隙間を通り抜け、床に淡い縞模様を描き出している。
蛍光灯の白い光と自然光が混じり合い、室内はどこかぼんやりとした、眠気すら誘う空気に満ちていた。
重いカーペットの上を歩く足音も、周囲の書類をめくるかすかな音も、妙に遠く感じられる。
私の席の周囲では誰もが自分の仕事に没頭しており、昼下がり特有の集中と倦怠が同居していた。
そんな中、私は急ぎの連絡を取ろうと、デスクの右端に鎮座する黒いビジネスフォンに手を伸ばした。
受話器を手に取る瞬間、冷たいプラスチックの感触が手のひらに広がる。
耳に当てると、わずかに機械油と埃のにおいが鼻をくすぐる。
正面のガラス窓越しに見える街路樹は微かに揺れているが、この空間だけは時間が止まっているかのようだった。
私は左手でしっかりと受話器を耳に押し当て、右手を自然にダイヤルボタンの方へ伸ばした。
しかし、何度ボタンを押しても、「プー」という外線の発信音は聞こえてこない。
耳元に広がるのは、ただひたすら無音の世界。
それは、普段当たり前のように響く電子音が、今だけは失われているという異様な静けさだった。
指先に伝わるボタンの感触も、なぜかいつもより軽く、妙にカチカチとした音がしないことにふと違和感を覚える。
「おかしいな」と、内心で焦り始める。
周囲の誰にもこの異変は気づかれていない。
私は少し背筋を伸ばし、額にうっすら汗が滲むのを感じた。
心臓が少しだけ早く打ち始める。
もし電話が壊れていたら――この連絡が遅れたら――そんな小さな不安の種が、胸の奥でじわじわと大きくなっていく。
もう一度、今度は力を入れてボタンを押す。
しかし、それでも外線のあの独特の電子音は鳴らない。
私は受話器を持ったまま、デスクの周囲を見回す。
誰もこちらに注意を払っていない。
空気は乾燥していて、口の中が渇いていることに気づく。
つい舌先で唇をなぞる。
自分だけが、何か目に見えない罠にかかっているような孤独感がじわりと広がる。
そのとき、ふと自分の右手の感覚に意識が向いた。
ボタンの感触が、どうにも電話のものではない。
目線を落とすと、電話機のすぐ隣に置かれた電卓の銀色のボディが目に入った。
私の指は、いつの間にか電卓のキーを叩いていたのだ。
キーの表面はつるりとしていて、押し込むたびに、電話とは違う軽やかなクリック音が微かに響く。
私は左手に受話器を持ったまま、右手でひたすら電卓のキーを押していたのだ。
何度も、何度も。
あまりのバカバカしさに、頬が熱くなり、思わず小さく息を呑んだ。
誰にも見られていないことを願いながら、私は電卓から手を離し、そっと受話器を置いた。
胸の奥に、安堵と恥ずかしさが同時に押し寄せる。
このささやかな失敗の瞬間、私は自分の注意力の脆さと、オフィスの日常に潜む小さな罠――機械の配置、慣れきった動作の油断――を痛感した。
外の世界は依然として静かなまま。
だが、私の胸の奥には、しばらく消えない赤面の余韻が、じっと残り続けていた。
仕事・学校の話:静まり返るオフィスで、電話と電卓に翻弄された私の滑稽な一幕
静まり返るオフィスで、電話と電卓に翻弄された私の滑稽な一幕
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