春の終わりが近づく午後だった。
窓の外では、陽射しが淡く差し込み、揺れるカーテンの影が机の上に縞模様を描いていた。
冷えたコーヒーの苦味が、唇の端にかすかに残っている。
私は書類の山に囲まれ、気づけば腕時計を何度もちらりと確かめていた。
電話をかけなければならない。
そう思った瞬間から、胸の奥に小さな不安の種が芽吹く。
あの人の声を聞くのが、なぜか今日に限って少し怖い気がした。
だが、仕事は待ってくれない。
私は受話器を左手でしっかりと握りしめ、右手を電話機へ伸ばした。
カチリ。
指先がプラスチックのキーに触れる。
だが、機械は沈黙したままだ。
外線の音すら聞こえない。
耳を澄ましても、あの独特の呼び出し音は、どこまでも静寂に吸い込まれていく。
やや焦りを覚えながら、私はもう一度、同じ動作を繰り返した。
何度も、何度も。
「おかしいな……」誰にも聞こえない独り言が、部屋の隅で溶けていく。
時計の針が、規則正しく時を刻む音だけがやけに大きく響いた。
ふいに、手のひらに伝わる感触が違和感となって意識にのぼる。
左手には、電話の受話器。
けれど、右手が叩いているのは、電話の隣に鎮座した電卓のキーだった。
数字と数字が指先で奏でる乾いた音。
その響きは、いつもなら計算結果への期待を孕んでいるはずなのに、今日はどこか空虚だった。
何をやっているのだろう。
自嘲の笑みが自然と浮かんだ。
電話をかけようとして、ひたすら電卓を叩いていた自分――まるで、現実と夢の間を彷徨う道化のようだ。
焦りも、恥ずかしさも、やがて静かな可笑しみに変わっていく。
窓の外では、燕が低く旋回し、初夏の青い空へと消えていった。
私は被さる沈黙に、そっと微笑み返す。
ささやかな失敗が、なぜか心をほぐしてくれる午後だった。
仕事・学校の話:静かな午後、数字たちの沈黙――ある事務室の小さな滑稽
静かな午後、数字たちの沈黙――ある事務室の小さな滑稽
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