仕事・学校の話:静かな午後、数字たちの沈黙――ある事務室の小さな滑稽

静かな午後、数字たちの沈黙――ある事務室の小さな滑稽

📚 小説 に変換して表示中
春の終わりが近づく午後だった。
窓の外では、陽射しが淡く差し込み、揺れるカーテンの影が机の上に縞模様を描いていた。
冷えたコーヒーの苦味が、唇の端にかすかに残っている。
私は書類の山に囲まれ、気づけば腕時計を何度もちらりと確かめていた。

 電話をかけなければならない。
そう思った瞬間から、胸の奥に小さな不安の種が芽吹く。
あの人の声を聞くのが、なぜか今日に限って少し怖い気がした。
だが、仕事は待ってくれない。
私は受話器を左手でしっかりと握りしめ、右手を電話機へ伸ばした。

 カチリ。
指先がプラスチックのキーに触れる。
だが、機械は沈黙したままだ。
外線の音すら聞こえない。
耳を澄ましても、あの独特の呼び出し音は、どこまでも静寂に吸い込まれていく。
やや焦りを覚えながら、私はもう一度、同じ動作を繰り返した。
何度も、何度も。

 「おかしいな……」誰にも聞こえない独り言が、部屋の隅で溶けていく。
時計の針が、規則正しく時を刻む音だけがやけに大きく響いた。

 ふいに、手のひらに伝わる感触が違和感となって意識にのぼる。
左手には、電話の受話器。
けれど、右手が叩いているのは、電話の隣に鎮座した電卓のキーだった。
数字と数字が指先で奏でる乾いた音。
その響きは、いつもなら計算結果への期待を孕んでいるはずなのに、今日はどこか空虚だった。

 何をやっているのだろう。
自嘲の笑みが自然と浮かんだ。
電話をかけようとして、ひたすら電卓を叩いていた自分――まるで、現実と夢の間を彷徨う道化のようだ。
焦りも、恥ずかしさも、やがて静かな可笑しみに変わっていく。

 窓の外では、燕が低く旋回し、初夏の青い空へと消えていった。
私は被さる沈黙に、そっと微笑み返す。
ささやかな失敗が、なぜか心をほぐしてくれる午後だった。
読了
スワイプして関連記事へ
0%
ホーム
更新順
ランダム
変換
音読
リスト
保存
続きを読む

コメント

まだコメントがありません。最初のコメントを投稿してみませんか?

記事要約(300文字)

ダミー1にテキストを変換しています...

0%
変換中