もう十年も昔のことになるが、私の人生を決定的に分岐させた、あの恐ろしい体験をいまだ鮮明に思い出すことができる。
あの午後の空気、埃の舞う薄暗がり、そして「沈まぬ太陽」という書物が私の運命を静かに、けれども確かに狂わせたのだ。
その年、私は十四歳。
背丈はクラスの平均よりやや低くて、髪は肩にかかるくらいの長さに結んでいた。
友達付き合いが苦手で、昼休みや放課後になるといつも一人で校舎裏の小さな図書館へと足を運んでいた。
教室のざわめきや、グラウンドから聞こえる歓声に背を向けて。
窓から差し込む陽射しの中、埃の粒が静かに舞い上がり、棚の間の空気はひんやりと湿っていた。
古びた本の匂いが、鼻の奥にいつもしっとりと残る。
ページをめくる指先には、紙のざらりとした感触と微かな冷たさがあった。
その日も、決まった席に腰を下ろし、もはや読み尽くした蔵書のタイトルをぼんやりと目で追っていた。
ふいに、重い静寂の中で、遠くから時計の針が時を刻む音がやけに大きく聞こえた。
ふと視線を本棚の最も奥、薄暗い下段に向けると、そこに一冊だけ他と異なる気配を放つ本があった。
まるでそこだけ光が吸い込まれているかのように、鈍く沈んだ色彩。
タイトルは、手書きのような不揃いな文字で「沈まぬ太陽」と記されていた。
その瞬間、心臓が一度だけ大きく跳ねた。
理由の分からない、ぞわりとした違和感──しかし、なぜか手を伸ばさずにはいられなかった。
本の表紙は、通常のハードカバーよりも薄く、まるで粗末な小冊子のようだった。
表紙には、意味を掴めない奇妙な絵が描かれている。
何かが爆発しているような光景にも見えたが、よく見るとそれは爆弾ではなく、何層にも塗り重ねられた太陽の円環。
その周囲に、歪んだ線や点が不規則に踊っていた。
紙の手触りは、他の図書とは違い、どこか湿り気を帯びて重く、触れる指先がわずかに汗ばんだ。
私は、その不穏さに抗えず、ページをめくった。
最初の数ページには、押し花が無造作に貼られていた。
花弁は色褪せ、ところどころ茶色く変色している。
ページを折るとき、枯れた花がカサリと小さな音を立て、微かな香りと共に細かな粉が指に付着した。
文章は断片的で、時に意味不明で、時に詩のようなリズムを持っていた。
墨が滲んだ文字が、不規則に空間を漂い、行間には不可解なイラストが挟まれている。
どの絵にも、必ず太陽が描かれている。
だがある一枚だけ、テーブルの上にレモンが一つだけ、ぽつんと置かれている絵があった。
レモンの黄色が、異様に鮮やかで、まるでページから浮き上がってくるようだった。
私は無意識に唾を飲み込む。
レモンの酸っぱい香りが鼻先に蘇ったような気がした。
「気味が悪い」と思ったのは確かだ。
だが、それ以上に、私は抗いがたい好奇心に飲み込まれていた。
ページをめくるごとに、心臓が高鳴る。
冷たい汗が首筋を伝い、背中に重い石を抱えているような圧迫感。
呼吸が浅くなり、指先が震えた。
その次のページで、私は何かが崩れる音を確かに聞いた気がした。
レモンの絵はただの序章だった。
次のページからは、太陽がじりじりと人間の輪郭を溶かしていく様子が、まるで連続写真のように描かれていた。
人間の顔が、腕が、肌が、どろりと溶け、黒い影に変わり、最後には太陽自体が人間の形を獲得して立ち上がる。
ページの端には、黒いインクのしみが、血のように広がっていた。
突然、遠くで何かが割れるような叫び声が聞こえた。
図書館の静寂を切り裂く鋭い声。
私はびくりと肩を震わせ、反射的に顔を上げた。
周囲の人々が、私をじろじろと見ている。
彼らの顔は、どこか平板で感情のない仮面のように見えた。
誰も何も言わないのに、その沈黙が耳鳴りのように頭の奥に響いた。
冷や汗が額を伝い、私は座っていられなくなった。
椅子の脚が床を引っ掻く音が、異様に大きく響いた。
図書館の外へ出ると、空気の質そのものが違っていることに気づいた。
まるで薄い膜が世界を覆っているような、よどんだ重苦しさ。
空気がねっとりと肌にまとわりつき、呼吸をするたびに喉の奥がざらついた。
見覚えのあるはずの通学路が、どこか歪んでいる。
色彩は褪せ、街路樹はいつもより背が高く、影が長く伸びていた。
私は、現実の裂け目に落ちたのだと、直感的に理解した。
道を進むごとに、景色はますます異様さを増した。
アスファルトの亀裂からは黒い液体が滲み出し、遠くの空は、夕焼けでもないのに血のような赤に染まっていた。
頭上には、どこか歪んだ太陽が、じりじりとこちらを見下ろしている。
湿った風が吹き抜け、海の方角からは塩気と鉄のような匂いが混ざり合い、鼻を突いた。
やがて、防波堤に差し掛かると、そこに一人の釣り人がいた。
彼は古びた帽子を目深にかぶり、無言で釣り糸を垂れていた。
バケツの中では、見たこともない奇妙な魚が跳ねている。
魚の体表は真っ黒で、目玉だけが異様に大きく、赤い斑点が浮かんでいた。
水が跳ねるたび、ぬめりを帯びた生臭い匂いが立ち上る。
空は一層濃いピンク色に染まり、海面は不自然なまでに黒く濁っていた。
私は足を止め、背筋に冷たいものが走った。
釣り人はこちらを振り返り、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
その瞳は、どこか懐かしさを感じさせる色をしていた。
だが彼はすぐに何事もなかったかのように顔を背け、釣りに戻った。
着ている上着の袖口は擦り切れ、手の甲には日焼けの跡がまだらに残っていた。
その時、背後で「喰われるぞ」という声が響いた。
声は低く、どこか湿った響きを持っていた。
私は「え?」と反射的に声を上げ、振り返った瞬間、黒い影が空から降ってきた。
カラスのような鳥だった。
だが、それは普通の鳥ではなかった。
羽根は油に塗れたように鈍く光り、くちばしは鋭く、目は濁った灰色だった。
その鳥が、私の手を鋭く突いた。
激しい痛みが、指先から肘まで一気に駆け抜けた。
熱く、痺れるような感覚。
血の匂いが一瞬、鼻腔を満たした。
釣り人は、慌ててバケツの魚をつかみ上げ、鳥たちの群れへと投げつけた。
魚が空中を舞い、着地と同時に群がる鳥たちが、狂ったように羽ばたき始めた。
それを見て釣り人は、私に向かい短く「急げ」と言った。
その声は、どこか懐かしい響きを持っていた。
私はその方向へ、無我夢中で走り出した。
足元の砂利が跳ね、靴音が異様に響く。
心臓が破裂しそうなほど高鳴り、呼吸は浅く、喉は焼けつくように渇いた。
走りながら、背後を振り返る。
そこには、巨大な太陽が、じわじわと地平線を這いながらこちらに迫ってきていた。
太陽の熱が肌を焼き、景色が溶けていく。
木々、建物、釣り人さえも、白い靄の中に消えていった。
全てが蒸発していく。
私は、叫びながら走り続けた。
──気がつくと、私の視界は真っ白な光に包まれていた。
まぶたの裏に、まだ太陽の残像が焼き付いている。
耳元で、何かが遠ざかるような音がした。
ゆっくりと意識が戻ると、私は病院のベッドの上に横たわっていた。
シーツの感触がざらついていて、枕元には薬品と消毒液の混ざった匂いが漂っていた。
看護師さんが慌てて医者を呼び、私はしばらく言葉が出なかった。
医者の話によれば、私は図書館で読書中に意識を失い、そのまま一ヶ月もの間眠り続けていたという。
家族は毎日見舞いに来てくれていたらしい。
窓の外には午後の光が差し込み、遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。
その現実感のある世界に、私は安堵と同時に深い違和感を覚えた。
枕元には、クラスメイトたちからの寄せ書きが置かれていた。
色とりどりのペンで、「早く元気になってね」「待ってるよ」などの言葉が並んでいた。
だが、すべてが元通りになったわけではなかった。
後日、三つの奇妙な出来事が私を待ち受けていた。
一つ目──あの「裏の世界」で助けてくれた釣り人が、亡くなった叔父であったことを知った。
退院後、アルバムの整理をしていた母が、古い写真を一枚差し出した。
そこには幼い私と並んで防波堤に立つ叔父の姿があった。
あの時の釣り人の、帽子の形、日焼けした手、声色までもが同じだった。
それ以来、私は欠かさず叔父の墓参りに通うようになった。
墓前に立つたび、あの世界の海の匂い、太陽の熱を思い出す。
二つ目──鳥に突かれた手の甲には、現実にも青黒い痣のような傷が残った。
最初は夢の中のことだと思い込もうとした。
だが、指で触れると確かな痛みがあった。
医者は原因不明と首をひねった。
私は、自分があの世界を「夢」として片付けてしまえないことを思い知った。
三つ目──私が昏睡している一ヶ月の間に、あるクラスメイトが自殺した。
Kという男子で、彼は寄せ書きの一角に「沈まぬ太陽」とだけ書き残していた。
後日、学校の図書館であの本を探したが、どこにも見当たらなかった。
後から聞いた話では、Kは図書委員からその本を借りて読んだ後、「呪いの書」と呼んで火にくべてしまったのだという。
それ以来、彼は様子がおかしくなり、ついには命を絶った。
寄せ書きの「沈まぬ太陽」は、彼が亡くなる直前に書き加えたものだった。
大学に進み、社会人になった今も、あの出来事は私の中で色褪せずに残っている。
今も読書は好きだが、作者不明の作品には決して手を伸ばさなくなった。
深夜、ふと窓の外に赤い太陽が浮かぶ夢を見ることがある。
目が覚めると、手の甲がじくじくと疼くのだ。
あの本が、私の世界のどこかでまだ「沈まぬ太陽」を灯しているのではないか──そんな予感と共に、私は今日もページを閉じる。
不思議な話:図書館の奥で開いた異界の扉──「沈まぬ太陽」と私の十年越しの記憶
図書館の奥で開いた異界の扉──「沈まぬ太陽」と私の十年越しの記憶
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