怖い話:雨の日の通路に立ち続ける女――大学生たちの夜を蝕む静かな恐怖の記憶

雨の日の通路に立ち続ける女――大学生たちの夜を蝕む静かな恐怖の記憶

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大学三年の春、梅雨入り間近の曇天の下、私たちは友人の新しい住まいを訪ねることになった。
軽い冷やかしと好奇心、そして変わり映えしない日常に少しでも刺激を求める気持ちが、私たち数人を小さな冒険へと駆り立てた。
大学の課題や将来の不安、恋愛のもつれなどを一時忘れ、皆で笑い合いながら、少し湿った舗道を歩いていく。
遠くで車が水たまりをはねる音が低く響き、空気には雨粒とアスファルトが混じった独特の匂いが漂っていた。

 友人が引っ越したというアパートは、いかにも地方都市の学生向けといった趣だった。
三階建ての灰色の建物は、決して新しいわけでもなく、かといって歴史を刻んだ古さもない。
中途半端な時代の名残をまとい、無個性なコンクリートの壁がどこかよそよそしい。
玄関先には古びたネームプレートが並び、誰かが落としたレシートや折れた傘の骨が、雨に濡れて地面にへばりついている。

 エントランスをくぐると、私たちを迎えたのは幅の狭い、鉄製の階段だった。
足を踏み入れると、靴底と金属がこすれる音が微妙に響き、階段の手すりには雨粒がぽつりぽつりと連なっていた。
階段の奥に続く通路は、天井の蛍光灯がまばらに照らすだけで、昼間にもかかわらず薄暗く、奥行きの感覚が歪んで感じられる。
右手には簡素な駐輪場があり、使い込まれた自転車が無造作に並んでいる。
タイヤのゴムと湿ったコンクリートの匂いが、わずかに鼻をついた。

 友人の部屋は二階の角部屋。
私たちは小さなスーパーで買い込んだビールや缶チューハイ、袋菓子を手にしていた。
雨は細かく、空気をじっとりと重くする。
傘を畳み、玄関前の階段に荷物を置いたとき、不意に友人の一人が声を上げた。

 「わぁっ――」

 その声は、単なる驚きよりも何か底知れないものに触れたような震えを含んでいた。
私たちは思わず手を止め、顔を見合わせる。

 「どうした?」
 「いや、ちょっと……驚いただけ」

 彼は言葉を濁しながら、目線で通路の奥を示す。
私たちは吸い寄せられるように顔を向けた。
そこには、闇に溶け込むように黒い服をまとった女性が立っていた。
三十代か、四十代か。
長い髪は湿気を吸って重く垂れ、白い顔がぼんやりと浮かぶ。
彼女は動かず、まるでその空間だけが切り取られたかのように、静止していた。
目は遠くの何かを見つめているようで、表情は窺い知れない。

 私の背筋に、冷たいものが走った。
雨の日の静けさの中で、その人影は異様に感じられた。
自分の呼吸が急に大きく聞こえ、頬に雨粒が伝う感覚がやけに生々しく思えた。
友人たちも同じだったのだろう、誰からともなく小さく会釈し、視線を外して階段を上った。
その間、階下の通路からは、蛍光灯の微かな唸りと、雨粒が金属の屋根を叩く規則的な音だけが聞こえていた。

 部屋に入ると、さっきの出来事がすぐに話題に上った。

 「下に不気味な人がいたよな」
 「なんであんな場所に立ってるんだろう」
 「住人なのかな……?」

 会話の間に、妙な沈黙が挟まる。
誰もが女の異様さを感じていたが、言葉にすることで現実味が増すのが怖かった。
住人なら自室に戻るはずだ。
しかし、彼女はただ立ち尽くしていた。
友人の一人が「怖い話はやめてくれよ」とむすっと口を尖らせた。
彼の声は冗談めかしていたが、どこか本気の苛立ちも混じっていた。

 やがて、酒が進み、ゲームに興じるうちに女のことは話題から消えた。
部屋の中は缶チューハイのアルコールの匂いと、スナックの塩気が混じり合い、湿った空気がほんの少しだけ軽くなったように思えた。
外からは相変わらず雨音が途切れず聞こえてくる。
窓ガラスには小さな水滴が連なり、街灯の光がぼんやりとにじんでいた。

 夜が更け、酒が尽きた。
友人二人が「何か買ってくるよ」と言い出し、近くのコンビニへ向かうことになった。
私は部屋で待つことにした。
時計の針の音がやけに響く。
部屋の空気がさっきよりも重く、妙に静かだ。
どこかで水滴が落ちる音が、規則的にリズムを刻んでいる。
私はふと、さっきの女の姿が脳裏にちらつき、無意識に背筋を伸ばした。

 だが、5分も経たないうちに、ふたりは慌てて戻ってきた。

 「やっぱり、皆で行こう」
 「まだあの女がいて、怖い……」

 ふたりの顔は青ざめ、声には切羽詰まった響きがあった。
酒の勢いで気が大きくなっていたはずなのに、どこか不安と恐怖が混ざり合っている。
住人の友人も、表情をこわばらせている。
私は「そんなまさか」と言いながらも、心の奥で小さなざわめきを感じていた。

 全員で階段を降りていくと、通路の奥にはやはり、あの黒い服の女が――まるで時が止まったかのように同じ位置に、同じ姿勢で立っていた。
暗がりの中、彼女だけが異質な存在として浮かび上がる。
蛍光灯の薄い光が髪に反射し、顔はますます仄白く、目は虚空を見つめている。
何時間も微動だにせず、雨の中で立ち尽くす――その異様さに、私たちはぞわりと肌が粟立つのを感じた。

 「挨拶してみようか」誰かが言った。
恐怖心を隠すような笑いが混じるが、酒のせいで妙な勇気が湧いていた。
だが、いざ近づこうとすると、女はいつの間にか姿を消していた。
私たちは顔を見合わせ、安堵と不気味さの入り混じった沈黙が流れる。
私の心臓は、しばらく落ち着かなかった。

 翌朝、雨はやんでいた。
夜明けの光がカーテン越しに射し込み、あの夜の出来事が現実だったのかどうか、曖昧な感覚に包まれた。
私たちはアパートを後にした。
日常へと戻る道すがら、誰もが昨夜のことを口にしなかった。

 後日、住人の友人がぽつりと言った。

 「引っ越そうかと思ってる」

 「もう?早くない?」

 彼は少しうつむき、言いにくそうに続けた。

 「あの女の人、やっぱり変だよ。
雨の日は必ず、あの通路の奥にいるんだ。
晴れた日は見かけない。
でも、雨が降ると、必ず……」

 友人は、雨の日のたびに彼女が立っているのを見ていたという。
どれほど遅い時間でも、どれほど静かな朝でも、彼女はそこにいた。
雨が止むと、まるで霧が晴れるように、跡形もなく消えている。
友人は一度、勇気を出して声をかけてみたそうだ。

 「こんにちは、二階に越してきましたって――でも、何も返事がないんだ。
ただ天井を見上げてるだけ。
全然動かなくて、まるで人間じゃないみたいで……」

 彼の声には、困惑と恐怖が入り混じっていた。
管理会社にも相談したが、何も解決しなかったという。
女はただ立っているだけで、害を加えるわけではない。
しかし、その「ただ立っているだけ」が、どうしようもなく不気味だった。
彼の目には、雨に濡れた通路の奥で、女の顔が静かに浮かび上がる光景が焼き付いていたのだろう。

 「幽霊じゃないと思う。
ちゃんと人間だ。
でも、雨の日にあそこにずっと立ってるって、やっぱりおかしいよね。
何なんだろう……」

 彼の言葉の奥底で、説明のつかない不安が渦巻いていた。
心のどこかで、「人間であってほしい」という願いと、「人間でない」可能性への怯えがせめぎ合っているようだった。

 結局、彼は半年も経たずにアパートを出ていった。
私たちはその後、あの女の正体を知ることはなかった。
あの薄暗い通路の奥、雨音と蛍光灯の唸りが交じる空間で、女は今も誰にも気づかれず、誰にも話しかけられず、ただ静かに立ち続けているのかもしれない。
私たちの胸には、あの夜の湿った空気と、得体の知れない恐怖の余韻だけが、いまだに残っている――。
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