六月の終わり、街は薄墨色の雨に煙っていた。
アスファルトに濡れた夕暮れの匂いが立ちこめ、ぼんやりとした明かりが、古びても新しくもないアパートの外壁を鈍く照らしていた。
大学時代の友人が新しい部屋に越したと聞き、私たちは半ば冷やかし、半ば祝福のつもりで、その場所を訪れたのだった。
アパートは三階建てで、手狭な階段が入口から奥へと続いていた。
その階段の手すりは、雨のしずくを冷たく孕み、触れると現実の重みをひっそりと伝えてきた。
脇には駐輪場があり、濡れた自転車が、誰にも語りかけることなく静かに佇んでいる。
友人の部屋は二階の角、窓際に小さな植木鉢がひとつ、曇りガラス越しに浮かんで見えた。
私たちは近所のスーパーで買い込んだ酒とつまみを携え、雨音を聞きながら階段を上った。
傘をたたみ、誰かが小さくため息をついたとき、不意に一人が「わぁっ」と声をあげた。
「どうした?」
「いや、ちょっと……驚いた」
指さす先、薄闇の通路にひとりの女が立っていた。
黒い服をまとい、長い髪が濡れた肩に貼りついている。
顔は青白く、まるで月明かりが落ちているかのようだった。
彼女は静かに、どこか遠くを見つめていた。
私たちは思わず息を呑み、小さく会釈して、足早に二階の友人の部屋へと向かった。
部屋に入ると、窓の外で雨がさらさらと踊っていた。
さきほどの女の話になり、誰かが「下に不気味な人がいたよな」と呟いた。
それに応じて別の友人が「怖いね、あそこで何してるんだろう」とささやく。
住人である友人は不安げな顔で、「やめてくれよ、怖い話は」と言った。
部屋の空気は一瞬だけ重くなったが、酒を開け、ゲームに興じるうち、女のことは忘れ去られていった。
夜が更け、どこか遠くで町の時計が鳴った。
酒が尽き、友人二人がコンビニへ行くと言い出した。
私は眠気に負けて部屋に残ることにしたが、彼らは五分も経たぬうち、息を切らして戻ってきた。
「やっぱり……みんなで行こう」
「まだ、あの女がいる。
怖い」
彼らの声は、冗談とも本気ともつかない震えを含んでいた。
私は酔いに任せて、「そんなまさか」と苦笑したが、確かめずにはいられなかった。
階段を降り、奥の通路を覗くと、薄暗い灯りの下、女はまだ同じ場所に立っていた。
何時間も微動だにせず、雨に濡れ、ただじっと、天井を見上げている。
その姿はこの世のものとも思えず、私の胸の奥に、かすかな違和感が巣食い始めていた。
私たちは肝試しのような気持ちで通路を抜け、女に軽く会釈した。
声をかけようか迷ったが、その時ふいに、脳裏に冷たい水が差し込むような恐れが走り、結局、何も言えなかった。
コンビニから戻ると、女の姿はすでになかった。
安堵と不可解が入り混じり、友人たちは小声で囁き合った。
翌朝、雨は止み、私は何事もなかったかのように家路についた。
*
それからしばらくして、住人の友人がぽつりと「引っ越しを考えている」と打ち明けた。
「もう? 早くないか?」
「……あの女の人がいるんだ」
彼は沈んだ声で続けた。
雨の日になると、決まってあの女が通路に現れるという。
雨が止むと、彼女は消えてしまう。
しかし、次の雨にはまた必ず現れる。
その執拗な存在感に、彼は次第に心を蝕まれていったのだ。
ある日、彼は勇気を振り絞って声をかけてみたという。
「こんにちは、二階に越してきました」
だが、女は返事をしなかった。
ただ、ひたすら天井を見つめている。
それは、人間というよりも、何かの影が立ち尽くしているようだった。
管理会社にも相談したが、答えは得られなかった。
雨の日には必ず現れる女。
何もしてこない。
ただ、そこに立っているだけ。
そのことが、かえって恐ろしかった。
「幽霊なんかじゃないよ。
ちゃんと生きている人間だと思う。
でも、怖くないか? 雨の日に、あそこでずっと……。
何なんだろうな」
彼の声は揺れていた。
表面は穏やかでも、内側では嵐が吹き荒れているのがわかった。
結局、彼は半年も経たないうちに引っ越した。
女の正体は、今もわからないままだ。
雨の日の薄暗い電灯の下、通路の奥に、今もあの影が立っているのかもしれない。
思い返すたび、私の胸の奥には、あの雨の匂いとともに、凍えるような違和感が静かに広がるのだった。
怖い話:雨の日の影―あのアパートの通路に佇む女について
雨の日の影―あのアパートの通路に佇む女について
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