いまでも、まぶたの裏に鮮明に焼き付いている記憶がある。
それは、ただ不思議というだけではない。
あの体験の「質感」は、日常の思い出とは根本的に異なっていた。
小学校五年生の、濃厚な夏の空気――あの瞬間の空気の重さや皮膚に感じた湿度、蝉の鳴き声が耳の奥に反響するような感覚までも、いまだにありありと思い出せる。
夏休みの盛り。
家の裏手に広がるグランドは、普段は白いラインがうっすらと消えかかったサッカー場で、夕立のあとには地面がぼこぼこにぬかるみ、草の匂いが濃く立ち込めた。
僕は、自由研究のために「身近な昆虫リスト」を作ろうと、ノートと鉛筆、虫かご、そして虫取り網を手に、午前の光の中グランドに向かった。
陽射しは強いものの、時折通り抜ける風はどこか湿り気を帯びていて、肌をやさしくなでていく。
靴底に伝わる土の柔らかさ、草むらに足を踏み入れたときの、ぱきぱきと折れる茎の感触。
そこにいるすべての昆虫たち――アリ、バッタ、カナブン、時折羽音を立ててすれ違うアゲハ――それらの動きまでも、今では妙に鮮明に感じられる。
グランドの隅、普段は誰も近づかない古びたフェンスの脇、ツタが絡まった鉄の扉が目に止まった。
表面は赤茶色の錆が浮き、無数の引っかき傷や、無名の誰かが刻んだ落書きが薄く残っている。
なぜか、その日はやけにその扉が気になった。
「開けてみたい――」そんな衝動が、胸の奥で小さく跳ねた。
手を伸ばし、ひんやりした鉄の感触に指をかける。
扉は思ったよりも軽く、かすかな軋みとともに開いた。
その内側から、土の匂いがふわりと漏れてくる。
そして、そこには暗闇へと続く梯子があった。
胸が高鳴る。
「冒険だ」
その言葉が、頭の中でこだまする。
一瞬、足がすくむ。
暗闇の底に何があるのか、未知への恐怖と好奇心がせめぎ合う。
だが、子供特有の衝動が勝った。
家に駆け戻り、埃をかぶった懐中電灯を手にして、再び扉の前に立つ。
あたりは、まだ昼下がりのまばゆい光に包まれている。
セミの鳴き声が耳にまとわりつく。
扉の向こうは、まるで世界が切り取られたような、冷たい静けさ。
僕は梯子に足をかけた。
金属の段はほんのりと湿って、足裏にひやりとした感触が伝わる。
上から差し込む光が、梯子の途中で途切れ、下は真っ暗だった。
慎重に一段一段、足を進める。
暗闇に包まれるにつれ、背筋に微かな悪寒が走る。
ようやく足が床に届くと、そこは金網の床だった。
踏みしめるたびに、細かい振動が足の裏に伝わる。
懐中電灯を点けると、光の帯が床下の暗渠を照らし出した。
そこには黒い水がゆっくりと流れ、かすかな水音が天井に反響する。
鼻をくすぐるのは、土と湿気の混じった匂いだけで、下水特有の嫌な臭いはしない。
壁はコンクリートで、ところどころに亀裂が走り、湿気で苔が生えていた。
通路は前後に続いている。
僕は、なぜか「前」に進むことを選んだ。
静寂の中、足音だけがやたら大きく響く。
懐中電灯の光は、狭いトンネルの中であっけなく吸い込まれていく。
20メートルほど歩いた頃、鉄格子が行く手を塞いでいた。
無機質な銀色の格子は、まるで「これ以上先へ行くな」と告げているようだった。
脇には、また梯子があった。
「もっとすごいものがあると思ったのに……」
拍子抜けした気持ちと、どこか安堵する気持ちが混ざり合う。
梯子を見上げると、上方からわずかに光が漏れている。
僕は、鉄の冷たさを両手に感じながら梯子を登った。
上に出ると、まぶしい光が目に飛び込んできた。
だが、そこには奇妙な違和感があった。
「……ここは、どこだ?」
距離的には、道路を挟んだ空き地に出るはずだった。
しかし、立っていたのは見慣れたグランドの片隅だった。
けれども、空は茜色に染まり、夕暮れの気配が辺りを満たしていた。
昼過ぎに梯子を下りたはずなのに、いつのまにか時間が飛んでいる。
心臓が、どくん、と大きく脈打つ。
胸の奥がざわついた。
全身の皮膚が、冷たい風に撫でられているように感じる。
グランドを見渡すと、何もかもが微妙に「違う」。
たとえば、フェンスの向こうの駄菓子屋は、見知らぬ民家に変わっていた。
公民館だった建物は、白いタイル張りの小さな病院になっている。
道路標識も、どこか異国めいた見たことのないマーク。
セミの声も、さっきまでの鋭い鳴き方とは異なり、どこか湿った低い響きに聞こえる。
「ここは、本当に僕の知っている町なのか……?」
不安が全身に広がり、手のひらがじっとりと汗ばんだ。
早く家に帰ろう――
その思いだけで、足を動かす。
しかし、道を歩きながらも、違和感はどんどん増幅していく。
家の前に着くと、決定的な異変が待ち受けていた。
庭には、見覚えのない巨大なサボテンが、まるで異国のモニュメントのように咲いている。
駐車場には、流線型で赤い、奇妙なデザインの車が止まっている。
玄関脇には本来あるべきインターホンの代わりに、銀色のレバーが外に突き出ていた。
そして、玄関のそばには、四本脚の、どこか動物じみた置物が立っている――表面はなめらかで、艶やかな光沢があり、どこか不気味な造形だ。
だが、表札にはまぎれもなく、自分の家の名字が刻まれている。
「本当にここは、僕の家なんだろうか……?」
頭の中が混乱し、冷たい汗が背中を伝う。
鼓動が速くなり、胸が苦しくなる。
玄関に入る勇気が出ない。
恐怖と違和感の渦の中、裏手から台所の小さな窓をそっと覗いた。
そこには、紫色の甚兵衛を着た父親が立っていた。
その隣には、なぜか学校の音楽教師がいる。
二人は、見たこともない茶器でお茶を飲みながら、淡々と談笑している。
その姿は、どこか現実離れしていた。
二人の声は、まるで水の底から響いてくるような、こもった音色だった。
窓越しにその光景を見た瞬間、僕の脳裏には「ドラクエ3の裏世界」のイメージが浮かんだ。
「……裏世界に来てしまったのかもしれない」
理屈では説明のつかない恐怖が、心の奥底から湧き上がる。
足が震え、歯がカチカチと鳴る。
「ここにいたら戻れなくなる」
その予感が全身を駆け抜けた。
僕は叫び出しそうな衝動を必死に抑え、再びグランドへと駆け戻った。
空気はすでに夜の気配を帯び、冷え始めていた。
グランドの雑草が衣服にひっかかり、足を止めそうになる。
扉の前で一瞬ためらったが、恐怖に突き動かされるように再び地下通路へと身を投じた。
金網の階段を転がるように駆け下り、懐中電灯の光が揺れる。
「早く、早く――ここから出たい」
心臓は今にも破裂しそうだった。
足がもつれそうになりながら、必死で元来た道を引き返した。
再び梯子を登り、錆びた扉を開けると、そこには見慣れた昼下がりのグランドが広がっていた。
空はまだ青く、蝉の声が現実のものとして響いていた。
僕はその場にへたりこみ、冷たい汗が頬を伝う。
世界は、やっと元に戻ったのだ。
けれど、その日から僕は、グランドに近づけなくなった。
あの錆びた扉を思い出すだけで、足がすくみ、心臓が早鐘を打った。
「もう一度、あちら側に引きずり込まれたら、今度こそ戻れないかもしれない」
そんな予感が、しばらく心を支配し続けた。
そのまま、家族の転勤で町を離れた。
あの出来事が何だったのか、結局わからずじまいだ。
――それから幾年も経ち、半年前、仕事で偶然この町の近くを通ることがあった。
車の窓越しにグランドを探すと、昔よりも駐車場が増えていたが、あのグランドはまだそこにあった。
しかし、僕は車を降りることすらできなかった。
あの恐怖が、鮮烈なフラッシュバックとなって胸を締め付けたのだ。
これは、僕が体験したことのすべてだ。
夢だったのかもしれない。
けれど、なぜか細部まで、いまも鮮明に覚えている――
不思議な裏世界の手触りと、二度と戻れないかもしれないという、あの底知れぬ恐怖を。
不思議な話:夕暮れの裏グラウンドと“もうひとつの世界”――五感に刻まれた異界体験の超詳細記録
夕暮れの裏グラウンドと“もうひとつの世界”――五感に刻まれた異界体験の超詳細記録
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