これは、僕よりも四つ年下の弟にまつわる、今も心の奥底で息づいている物語だ。
季節は、あの汗ばむような夏へと遡る。
当時、家族は五人だった。
僕は中学二年生、陸上部に所属していて、毎朝、まだ世界が眠りの殻に包まれている時間帯に目を覚ましていた。
弟は小学四年生。
半分まだ子どもの輪郭が残る丸い頬と、どこか大人びた無垢な瞳。
兄は高校一年生だったが、寮生活を送っていたため、家に彼の気配が満ちることはほとんどなかった。
兄の使っていた部屋には、もう何ヶ月も人が入った形跡がなく、窓辺に立てかけたままの陸上用スパイクだけが、埃をかぶっていた。
それは、夏の湿度がじっとりと部屋の空気を重くしていたある朝のことだった。
カーテンの隙間から射し込む淡い金色の光が、まだ眠りと覚醒の狭間にいる僕のまぶたを優しく叩く。
目をこすりながらベッドから起き上がると、隣で寝ているはずの弟の姿がないことに気付いた。
兄が寮にいる今、寝室はやけに広々としていて、弟の布団だけがぺたんと沈んでいる。
最初は、トイレにでも行ったのだろうと、特に気に留めなかった。
だが、なにかが違和感として、胸の奥にじんわりと広がる。
エアコンの効きが悪い家の空気を感じながら、静かな廊下を裸足で歩く。
家の中は、しんと静まり返っていた。
時計の針が刻む音だけが、妙に大きく響く。
ふと、玄関の方からかすかな風の流れを感じて、扉を開けて外に出た。
蝉の声が一斉に耳に飛び込んでくる。
朝露で湿った地面の感触が足の裏にひんやりと伝わる。
庭の端、背丈を越すほど伸びた雑草の影で、弟はそこにいた。
彼は薄いパジャマ姿で、裸足のまま、草むらの上で静かに寝息を立てていた。
顔に寝癖がつき、口を半開きにしている様子は、まるで自分の世界に完全に没入しているかのようだった。
僕はそっと弟の肩を揺する。
彼は一瞬まどろみの中でまばたきし、何が起きたのか分からないようなぼんやりとした表情を浮かべた。
「外で寝てたよ、お前」と声をかけると、弟ははにかむように短くうなずいた。
まだ、夢と現実の境目にいるような、そんな顔だった。
そのまま僕は、いつも通りランニングへと出かけた。
家のドアには、確かに鍵がかかっていたはずだ。
でも当時の僕は、そこに疑問を持つこともなく、靴ひもを結び、冷たい朝の空気を一気に肺に入れて走り始めた。
アスファルトの感触が足の裏に心地よい。
田舎の朝は、川の匂いと、どこか土の湿った香りが混ざり合っている。
それから、弟が夜中にいなくなることが何度かあった。
ある日は、勉強机の下で、膝を抱えて丸まっている弟を見つけた。
別の日は、開け放したタンスの陰に、まるで自分を隠すように滑り込んでいた。
彼の小さな背中が、無意識のうちに何かから逃れようとしているように見えた。
弟の寝顔はいつも穏やかだったが、その安堵の裏側には、僕の知らない世界が広がっているような気がしてならなかった。
時は流れる。
日々の忙しさ、学校の課題、部活の練習、友人との些細な喧嘩や和解、そんな日常の波に揉まれるうち、弟の奇妙な行動も次第に僕の記憶の奥底へと沈んでいった。
年が明け、正月のある夜。
炬燵の温もりに家族が集まる。
畳の上に広げたみかんの皮の香り、湯気の立つお雑煮の甘い匂い、テレビから流れる笑い声。
それらが、束の間だけ日常の不安や寂しさを和らげてくれる。
そんな和やかな雰囲気の中、母がふと、ぽつりと口にした。
「お前たち兄弟には、夢遊病の癖があったんだよ」――その声は、いつもより少しだけ低く、どこか遠い記憶を確かめるようだった。
僕は驚いた。
自分が夢遊病だったなんて覚えていない。
兄貴のことも、まったく知らなかった。
思い返してみても、夜の記憶はまるで霞のように輪郭が曖昧で、手を伸ばしても掴めない。
だが、母の言葉を聞いたとき、心の奥で何かが引っかかる。
その晩、兄が久しぶりに帰省していた。
僕は、家族が寝静まった後、兄の部屋をノックした。
廊下の電灯の明かりが、兄の顔に複雑な影を落とす。
寝巻き姿でベッドに座る兄は、どこか懐かしそうに僕を見ていた。
僕は、意を決して訊いた。
「なあ、昔、何度も同じ夢を見たこと、ない?かくれんぼの夢だよ」――声が少しだけ震えた。
兄は眉を僅かにひそめ、しばし沈黙したあと、「そういえば、小学生のころ何回か見たな」と呟く。
その声には、遠い記憶をたぐり寄せるような、微かな戸惑いが混じっていた。
僕はさらに踏み込む。
「一緒にかくれんぼしてた子に誘われたことない?」兄は、少しだけ顔をしかめ、「一緒に川原に行こうって言われた気がする。
結局、行かなかったけど」と短く答えた。
僕も、同じだと伝えた。
僕は夢の中で、その子の誘いを断っていた。
そして、最後にその子にこう言われたことまで、僕らは全く同じように覚えていた――『じゃいいや。
弟と行くから』
僕たち兄弟が、その夢を見なくなったのは、ちょうどその頃だったと思う。
まるで何かが、夢の奥底へと静かに沈んでいったように。
それから、季節はめぐり、時は流れた。
来月は弟の十三回忌を迎える。
あの日、十二月の朝。
冬の冷たい空気が家の隙間から染み込んでくる。
僕がランニングから帰ると、家の前に救急車が停まっていた。
サイレンの音が妙に遠く、現実味を帯びていなかった。
家の中は、普段よりも、さらに静かだった。
母が、弟が布団の中で冷たくなっているのを見つけたと言う。
あのときの母の震える声、父の怒鳴るような泣き声、冬の空気の中で僕の心臓は痛いほど早く脈打っていた。
弟が、あの夢を見ていたのかは、結局分からずじまいだ。
彼が川原まで誰かと行ったのか、それとも、ただ末っ子として誰にも言えないものを抱えていたのか。
ただの心不全だったのか、僕にも分からない。
けれど、この出来事だけは、親には絶対に話さない僕と兄貴だけの秘密だ。
月明かりの下、静かに流れる川原の夢の中で、今も弟は――僕らの知らない世界で、誰かとかくれんぼをしているのかもしれない。
不思議な話:「夏の朝、消えた弟と兄弟の夢遊病――川原の記憶と十三回忌に残る秘密」
「夏の朝、消えた弟と兄弟の夢遊病――川原の記憶と十三回忌に残る秘密」
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