それは、弟のことを語るにはあまりにも静かな、ある夏の朝だった。
東の空がかすかに白みはじめ、夜の帳がじわじわとほどけていく。
蝉の声さえまだ眠りの中にいるその時刻、僕はいつものように目を覚ました。
窓の外には、朝靄が薄絹のように家々を包み、世界全体がまだ夢と現実の狭間に漂っていた。
ベッドの上、僕の視線は無意識に弟のほうへと向かう。
だが、そこに彼の姿はなかった。
布団はわずかに乱れ、幼い彼の体温の気配だけが残されている。
小さな違和感が、ゆっくりと胸の奥で膨らんでいく。
「きっとトイレだろう」と自分に言い聞かせながら、僕はランニングシューズの紐を結ぶ。
朝の湿った空気が、僕の頬をかすめた。
玄関のドアを開けようと手を伸ばした瞬間、ふと、鍵がしっかりと閉まっていることに気づいた。
不思議に思いながらも、外に出ると、芝生の上に小さな人影が横たわっていた。
それは、弟だった。
彼は、まだ夢の中にいるように、無防備な寝息を立てていた。
白いシャツが朝露に濡れ、細い指先は草の上をさまよっている。
僕はそっと肩に手を置き、彼を揺り起こした。
「……おい、起きろよ。
こんなところで寝てたら風邪ひくぞ」
弟はまぶしそうに目をこすり、何が起きているのか理解できていない様子だった。
その姿に、どこか言い知れぬ不安が胸をよぎる。
しかし、僕はその感覚を深く追いかけることなく、ランニングへと出かけた。
それからしばらくして、弟が時折姿を消すようになった。
家の中で、まるで何かから隠れるように、机の下やタンスの陰に縮こまっているのを見つけることがあった。
彼の小さな背中が、闇に溶け込む影のように見えたことを、今も忘れられない。
時は流れ、季節は巡る。
僕たち兄弟はそれぞれの時間を生き、あの奇妙な出来事も、やがて日常の中に埋もれていった。
*
正月の午後、暖かなコタツの中で、久しぶりに家族が揃った。
兄は寮生活に慣れ、僕は陸上部で鍛えられ、弟はもうすっかり大きくなっていたはずだった。
母がポツリと呟いた。
「お前たち、夢遊病の癖があったんだよ」
その言葉は、冬の冷たい隙間風のように、僕の心に入り込んだ。
自分が夢遊病だったなんて覚えていない。
兄のことも、もちろん知らなかった。
だけど、その一言で、忘れかけていた記憶が静かに蘇る。
*
ある晩、僕は兄だけを呼び出して尋ねた。
「なあ……昔、何度も同じ夢、見たことない? かくれんぼしてる夢」
兄は少し驚いた顔をしたあと、遠くを見るような目つきになった。
「……ああ。
小学生のころ、何回か見たな」
「一緒にかくれんぼしてる子に誘われたことは?」
「川原に行こうって? 誘われたけど、行かなかった」
「俺もだ。
断った。
……最後に、その子に何か言われなかった?」
兄はしばらく沈黙し、やがて低い声で答えた。
「『じゃあいいや。
弟と行くから』……そう、言われた気がする」
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
僕たちはしばらく、言葉もなく向き合った。
あの夢を見なくなったのは、それ以来だった。
*
十二月の冷たい朝、僕がランニングから帰ると、家の前に救急車が停まっていた。
サイレンの音が、冬の空にむなしく溶けていく。
母の叫び声が、遠い世界の出来事のように聞こえた。
弟は、布団の中で冷たくなっていた。
医師は「心不全」とだけ告げた。
あの日の朝の光景を、僕は今も鮮明に思い出すことができる。
妹がいない、もう二度と戻らない現実が、冷たい手すりのように僕の心を締めつける。
弟があの夢を見ていたのかは、今もわからない。
川原へ向かったのか、末っ子だったからなのか、それとも、ただの偶然だったのか。
真相は、誰にもわからない。
けれど、これは親には絶対に話さない、僕と兄だけの秘密だ。
十三回忌を迎えるいまなお、あの夏の朝の露の冷たさと、弟の寝息のぬくもりが、僕の心の奥底で、そっと揺れている。
不思議な話:川原へ誘う影——ある夏の朝と十三回忌の記憶
川原へ誘う影——ある夏の朝と十三回忌の記憶
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